端午の節句
筆者が在住する台湾では、端午の節句に「ちまき」を食べる風習があるが、日本のそれとは少し異なる。
台湾のちまきには、様々な具材がもち米の中に包まれているのだ。各家庭や各団体でちまきを作るイベントが開催され、この時期には飽きるほどちまきを台湾人からもらうことが多い。
「味が違うから、うちのも食べてみて!」と言われることが多いが、結局は同じ味にも思えてしまう。それはおそらく筆者が醤油をかけて食べるからだろう。台湾のちまきには、豚肉、栗、卵黄、エビ、ピーナッツなど、様々な具材が入っている。
今回は、このちまき(中国語では「粽子」と呼ばれる)の起源と、750年前のちまきの発掘について紹介したい。
ちまきの起源 ~楚の国
幾千年前の中国、戦国時代に楚(そ)という国があった。
楚国には多くの大臣がいて、楚の王である懐王に様々なアドバイスをしていた。その中に屈原(くつげん)という大臣がいた。
屈原は名門出身の優秀な政治家で、詩人でもあり、楚国を愛していた。
屈原は、秦の張儀の謀略を見抜き、懐王がその策略に踊らされようとしていることを必死で諫めたが、懐王はそれを受け入れなかった。この状況に絶望した屈原は、楚国の将来に希望を見出せず、自らの命を絶つことを決意した。
屈原が楚国の滅亡を遠い地で聞いたのは5月5日の端午のことだった。悲しみに暮れた屈原は、石を体に括りつけて汨羅江に身を投げた。
そのことを知った人々は必死で川を探したが、ついに屈原の遺体を見つけることはできなかった。
そこで住民たちは「魚が屈原の体を傷つけないように」と、川に葉で包んだ米を投げ入れた。
これが後に「端午の節句」の起源となったと言われている。
この風習は、屈原の忠誠心と愛国心を偲び、彼の精神を受け継ぐものとして今なお続いている。
750年前、南宋時代のちまき
1988年、中国江西省徳安県で南宋時代の墓から、750年前のちまきが発掘された。
この墓の主は1274年に亡くなった周氏という女性であり、発掘時には右手に40センチの桃の枝を持ち、その先に2個のちまきが結びつけられていたという。
発見されたちまきは、長さ6センチ、幅3センチの菱形で、葦の葉で包まれ、麻の紐で結ばれていた。保存状態は非常によく、宋時代のものであることが判明した。現代のちまきとほとんど変わらないその姿は、歴史的な食文化の継承を物語っている。
専門家の推測によると、墓の主はちまきを食べるのが好きで、端午の節句を迎える前に亡くなったため、家族が哀悼の意を込めてちまきを一緒に埋葬したのではないかと考えられている。
ちまきには塩辛いものと甘いものがあり、宋時代にはどちらが食べられていたのかが気になるところである。現代の塩辛いちまきは明の時代から始まったとされ、それ以前は甘いものが主流であったという。このことから、宋時代のちまきは甘いものであった可能性が高い。
しかし、このちまきは一度解いてしまうと元に戻すことができないため、その中身は永遠の謎として残ることとなった。
博物館では、透明な長方形のケースに展示され、その神秘を保ちながら多くの訪問者の関心を引いている。
最後に
筆者が住む台湾では、端午の時期になると市場にはちまきの材料が豊富に並ぶ。
最近では、お店に注文する人も増えているが、それぞれの店で味が異なるため、主婦の間では「ちまき討論」が盛んに行われている。筆者は特にこだわりはないので、提供されるちまきをありがたくいただくだけだが、大量のちまきが冷凍庫を占拠することになる。
それでも、ちまきを食べるたびにその歴史と文化に思いを馳せ、感慨深い気持ちになる。ちまきに込められた家族の愛や歴史の深さを感じながら、これからもこの伝統を大切にしていきたいと考えている。
参考 : 世界最古老的粽子 封存750年內餡是甜是鹹
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