安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍し、築城の名人としても知られる戦国武将・藤堂高虎(とうどう たかとら)。
主君をたびたび変え、織田・豊臣・徳川に仕えた高虎は、江戸時代まで生き、畳の上でその生涯を終えた。
そんな彼の生き方を後世まで語り継ごうと、家来が高虎の言葉をまとめたのが「高山公遺訓二百ヶ条」である。
ここでは、その遺訓の概要について紹介したい。
「高山公遺訓二百ヶ条」のなりたち
高山(こうざん)公とは、藤堂高虎のことである。彼の戒名『寒松院殿前伊州羽林道賢高山権大僧都』から取られた。
『遺訓二百ヶ条』は、高虎の死後34年にあたる1664年に、太神朝臣惟直(佐伯権之助惟直がその正体だという説もあるが、はっきりしたことは不明)という高虎の側近だった者によってまとめられた。
つまり、高虎が直接残した遺訓ではないのだが、書かれている内容は高虎の言葉が元になっているようだ。
安濃津藩の藩政史『宗国史』の中の遺書録に、これが残っている。
遺訓の数は全部で204条ある。元々200条だったものに、後から4つ追加されたようだ。
4章あり、「武士の覚悟」「家来を使う時の心がけ」「主君への仕え方」「家老の心構え」、となっている。
しかし実際に読んでみると、その内容は上記の4つの内に収まらないものもある。戦国時代特有の知恵から、現代まで通じる人間関係のあり方など多岐にわたる。
現代のビジネスパーソンにも、役立つこと間違いなしの内容となっている。
「武士の覚悟」について
最初は「武士の覚悟」についてである。
可為士者常之覚悟之事(さむらいたるもの、つねのかくごのこと)
記念すべき第1条は、以下のような内容だ。
第1条 現代語訳
『寝室を出る時から、今日が死ぬ日であると覚悟しておくこと。そうすれば物事に動じることはない。これが本来のあるべき姿だ』
非常に戦国武将らしい言葉である。
似たような言葉を上杉謙信も残しているが(死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり)、常に生死と隣り合わせであった戦国時代は、このような考え方の者が多かったに違いない。
そして、これを家来にも伝えていたのだろう。
高虎の死後は本格的な江戸時代、つまり太平の時代に突入しているので、どれほど家来がこの教えを心に刻んでいたのかは疑問であるが、戦国武将の遺訓としては非常に「らしい」ものである。
「家来を使う時の心がけ」について
次の章は「家来を使う時の心がけ」である。
家来常々召仕様之事(けらいつねづね めしつかいようのこと)
当時の「家来」は、現代の「部下」にあたる。
ここには、働く人なら誰でも参考になりそうな遺訓がある。その中から一つ紹介しよう。
第14条 現代語訳
『部下に良い者、悪い者はいない。それぞれの得意分野を見出し、適材適所で使えばクズはいない。できないことを指示するから、埒が明かずに腹を立てることになる。それは上司に人を見る目がないからだ』
高虎は大名である。つまり、大抵の場合は上司の立場であった。しかし、この遺訓は上司に対しても厳しい内容となっている。
これは彼の経歴に由来する。
高虎は農民のような下級武士から、槍一本でのし上がり、数々の主君を変えた後に大名となった。そのため、良い上司も悪い上司も見てきた経験があり、適材適所の重要性を理解していたのだ。
また、高虎は「築城の名人」としても知られ、晩年には徳川家康の指示で多くの城を建てた。家康はこの遺訓の通り、得意分野を見出して人を使うのが上手な人物であった。
高虎もその姿勢に共感していたのかもしれない。
「主君への仕え方」について
次の章は「主君への仕え方」である。
主君江奉公之心持之事(しゅくんへほうこうのこころもちのこと)
主君、つまり上司に対してどのように仕事をしていくべきかを説いた章である。
しかし、この章にはたったの4つしか遺訓がない。
この章からは、以下の遺訓を紹介しよう。
第27条 現代語訳
『普段から用をやりとげる覚悟や心がけをもち、油断してはならない』
第30条
現代語訳 『主人に奉公をするときは、へりくだり、欲を捨てて、主人のためを第一とするように。人によって心の持ち方があるべきだ』
戦国武将であるから、現代とは主人への心構えが違うのは当然である。現代ではこのように考えながら仕事をしている人は少ないかもしれない。
しかし一方で、別の章ではあるが、こんな遺訓もある。
第40条 現代語訳
『数年、昼夜奉公をつくしても気が付かないような主人なら、代々仕える家であったとしても辞めるべきだ。うつらうつらと暮らすのは意味がない。だが、情が深く道理正しい(主人)ならば、なりふりかまわず働いて、代々仕える主人だからと情を持って考え直し、思いとどまる事』
高虎には、主君が実力を認めてくれずに転職した経験がある。それは、津田信澄(織田信長の甥)に仕えていた頃だ。
出世を蹴ってまで転職したことから、相当に合わなかったのかもしれない。
しかし、仕えていた間も真剣に仕事をしていたことが、この遺訓からも伺える。実際、信澄の遺児をその後引き取っていることからも、主君を第一に考えていたことがわかる。
「藤堂高虎は、家ではなく人に仕える武将だ」と評されるのも、この遺訓から窺える通りである。
「家老の心構え」について
家老は、現代でいえば管理職に当たるだろう。
高虎は豊臣秀長(秀吉の弟)の家老をしていた時期がある。
ここでは「家老の心構え」について書いてある。
家老の心持之事(かろうのこころもちのこと)
この章の最初に、特に長い以下の遺訓がある。
第31条 現代語訳
『欲から離れ、淫乱なことを止め、気ままをせず、自分のしたいことをせず、嫌なことでもすること。主人の決まりを守り、下の者へは規範を示し、年長者らしい気持ちで接すること。人が伸びるように計らい、人に災いが起きても意見をして計らうことが大事。主人の気に入らない人であっても、下の方で道理を正し、手落ちがない時には、自分が咎められたとしても、人に傷がつかないように心がけること』
一箇条の中にこれほどのことが書かれており、家老に対する要求は非常に多い。
実際、この章が最も長く、途中からは家老だけでなく他の役職にも言及しているように見える。それほど家老は重要な役割だったのだろう。
現代でも部下と社長をつなぐ管理職は重要であり、不正も起こりやすい。特に高虎がこの話をした頃は大名であったため、家老を身近に感じていたに違いない。
言いたいことも多かったのであろう。
その時代を生きるためのコツ
ここまで真面目な遺訓を紹介してきたが、この遺訓の面白いところは、真面目な遺訓に混じって、力が抜けてしまうような遺訓も残されているところだ。
いくつか、現代語訳で紹介しよう。
第53条
『窮屈なところを好み、楽なところを嫌うべし』第82条
『けがをして血止めがない時は、自分の小便をかけるべし』第101条
『囲碁や将棋にアドバイスをしてはならない』第148条
『服を破ってはいけない。必ず思い当たる事がある。慎むように』
非常に細かい内容で、何があったのか気になるような遺訓である。
将棋のアドバイスをしてトラブルになったのだろうか。服を破って後悔したことがあったのかもしれない。
このような遺訓がたくさん残されているのである。
おわりに
『高山公遺訓二百ヶ条』は、興味深い内容が多く、人生の参考になる遺訓も豊富に残されている。
武将の名言は多く残されているが、遺訓だけでこれほど長いのは高虎くらいではないだろうか。しかもこれ以外にも、自分の跡取りにあてた遺訓もあるというのだから恐れ入る。
当時の人々の生活を知る資料としても貴重である。
伊賀上野城には、この遺訓をまとめた本も売られているので、興味がある人は探してみると良いだろう。
参考文献:藤堂高虎公と遺訓二百ヶ条
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