戦国時代の築城名人といえば、加藤清正・黒田官兵衛・藤堂高虎である。
その中でも歳が近く(6歳違い)、何かと共通点があったのが加藤清正と藤堂高虎だ。
彼らは共に巨漢(身長190cm)であり、豊臣家の家来として戦をし、朝鮮に行き、関ヶ原の戦いでは東軍についた。
しかし、ある意味まったく正反対な部分もあった。主君への考え方、石垣の造り方、兜の形、そして最期などだ。
今回はそんな二人の共通点と、正反対の部分について紹介する。
加藤清正と藤堂高虎
加藤清正は豊臣秀吉の遠縁の親戚で、秀吉の小姓からそのキャリアを積んだ。
生涯にわたって豊臣家一筋で、家康に従った後も、心の中では常に豊臣家のためにどう動くかを考えていた人物である。
身長190cmの大男で、長烏帽子形兜(ながえぼしなりかぶと)という高さのある兜を被り、片鎌槍を振るい、帝釈栗毛(たいしゃくくりげ)という大きな愛馬で戦場を駆けていたと伝えられている。
藤堂高虎は近江藤堂村の貧乏武士の出身で、最初は浅井長政に仕えた。
その後、次々と主君を変え、最終的には11人の主君に支えている。
しかし、裏切ったことは一度もなく、常に己の身の振り方を自分で決めてきた人物だ。
豊臣家一筋だった清正とは正反対である。
高虎も身長190cmの大男で、黒漆塗唐冠形兜(くろうるしぬりとうかんなりかぶと)というウサギの耳のような横に長い兜を被っていた。
こちらも、高さのある兜を被っていた清正とは対照的である。
敵将を討ち取って奪い取った賀古黒(かこぐろ)という愛馬で、戦場を駆けていたという。
同じ戦に出ていた二人
清正は秀吉の家来として、高虎は秀吉の弟・秀長の家来として過ごした。
彼らは共に中国征伐の冠山城の戦い、中国大返し、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなどに参加している。
特に清正は、賤ヶ岳の戦いでは「賤ヶ岳七本槍」にも数えられる華々しい活躍をした。
清正と高虎は、その後の小牧・長久手の戦いや四国征伐、九州征伐にも参戦している。
しかし清正は、どちらかというと後方支援の役割が多かったようである。華々しい武功の数々は後世の創作の可能性もあるという。
一方、高虎は前線で戦っていた記録が残っており、根白坂の戦いでは島津相手に奮戦している。
それぞれの場所で活躍した朝鮮出兵
文禄・慶長の役においては、加藤清正の活躍が多く記録されている。
文禄の役では二番隊の主将として、一番隊の小西行長を上回る北進を遂げ、なんと満州まで到達した。
主に陸上で朝鮮軍と戦ったが、内部での対立が原因で日本に連れ戻され、謹慎を命じられた。
慶長の役では再び出兵し、蔚山倭城を築城したが取り囲まれ、大規模な籠城戦を余儀なくされながらも耐え抜いた。
一方、藤堂高虎は水軍を率いて海上戦を担当しており、陸上戦を繰り広げた清正とは対照的である。
初めての水軍指揮にもかかわらず、水軍大将としての役割を果たし、朝鮮の英雄・李舜臣(り しゅんしん)と幾度も戦った。
慶長の役では漆川梁海戦で大勝を収め、日本に呼び戻された際には秀吉から褒美を受け取っている。
叱責され、謹慎させられた清正とはこちらも対照的である。
秀吉の死後は、撤退の大将として、軍を無事に日本に送り届けるという重要な役割を果たした。
愛媛県には、二人に関わりがある祭りが残っている。宇和島の「牛鬼祭り」である。
この祭りには大きな牛鬼が登場するのだが、これは清正が朝鮮出兵時に作った亀甲車(板で箱の形を作り、それを牛革でくるみ、先端に牛の首を刺したもの。中に兵士が入って攻め入った)が元になっているという。
では、なぜこの亀甲車が宇和島に伝わったのか。
それは、宇和島が高虎の領地だったからである。
清正の戦いぶりに感銘を受けた高虎が、自分の領地に伝え、それが祭りになったという説があるのだ。
築城名人たちの城造りの違い
二人は築城名人として有名であるが、二人の城の造りには大きな違いがある。
まず一つは天守の形である。
清正の代表作である熊本城は「望楼型天守」と呼ばれる、昔から大名たちが採用してきた美しい形だ。しかしこれには欠点があり、必ず屋根裏ができて地震にも弱かった。
一方、高虎は「層塔型天守」を考案し、晩年に建てた城の多くに採用した。
高さを出す事ができるこの天守は地震に強く、工期も短縮されるため、江戸時代初頭に多くの大名がそれにならった。
そしてもう一つの大きな違いが、石垣である。
清正は石垣の反りを重視した。熊本城にもある「扇の勾配」は、反りがあって見た目にも美しい。これらの石垣は「武者返し」とも呼ばれ、登れそうで登れない石垣だ。清正の石垣は芸術品のような風格を持っている。
一方、高虎の石垣は、反りのない直線的な積み上げられ方をしている。
この直線的な積み方の石垣は「宮勾配(みやこうばい)」と呼ばれており、伊賀上野城では高さ30mの高石垣を見ることができる。
最後の邂逅となった二条城会見
二人が最後に会ったのは、おそらく二条城での会見の時であろう。
関ヶ原の戦いが終結し、徳川家と豊臣家の対立が表面化し始めた頃、徳川家康と豊臣秀頼が二条城で会見することとなった。この時、清正と高虎も同席していた。
清正は豊臣家を守るために、徳川との和睦を模索していた節がある。一方、高虎はすでに徳川の家臣としての立場を確立しており、豊臣家については家康の意向に従う姿勢を取っていた。
この会見の後、清正は急逝し、その死には暗殺の噂もあった。この清正の死により、豊臣家を守る重要な柱が失われ、結果として大坂の陣へと繋がっていくことになる。
加藤家の面倒を見た高虎
清正が謎の死を遂げた後、加藤家は長男次男が早世したため、三男の忠広(当時11歳)が引き継いだ。
しかし、ここで問題が発生した。清正の急死により、政務が停滞してしまったのである。
清正は非常に勤勉であり、多くの政務を自らの手でこなしていたため、肥後52石の政務は危機に瀕したのだ。
1616年10月、ピンチの加藤家にやってきたのが高虎である。高虎は忠広の後見人として肥後の国政を担当し、九州諸大名の動静を観察するために熊本を訪れている。
この時、高虎は清正の建てた壮大な熊本城を、直接その目に見ただろう。
清正の巧みな技術と壮麗な構造は、高虎の目にどのように映ったのだろうか。
おわりに
その後、後ろ盾の高虎が死去すると、加藤家は3年も経たぬうちに改易されてしまった。
「清正の急死は幕府の陰謀だ」という噂が立つほど、加藤家は幕府から疎まれていたようだ。
一方、高虎は徳川秀忠や家光に惜しまれながら江戸屋敷で生涯を終えた。藤堂家は他の大名家と違い、幕末まで領地替えされることなく存続した。幕府のお気に入りだったのだ。
清正は後世に「清正公(せいしょこ)さん」として領民に神格化され、慕われ続けた。しかし、高虎の生き様は江戸時代の価値観に合わず、「おべっか使いの変節漢」と評されることが多かった。
加藤清正と藤堂高虎は、同じ時代に生き、同じ巨漢であり、同じ豊臣家に仕え、同じ戦場で戦い、築城名人同士でもあった。
多くの共通点を持ちながらも、その最期や死後の評価まで対照的であり、歴史の中で異なる光と影を織り成したのである。
参考文献:江戸時代の設計者 異能の武将・藤堂高虎
文 / 草の実堂編集部
面白い視点で二人を対比されていて、とても楽しく読ませていただきました。