1600年、天下分け目の戦いとも称される「関ヶ原の戦い」。
豊臣秀吉の死後、政権内の派閥争いが激化する中、徳川家康を中心とする東軍と、石田三成を中心とする西軍が各地で衝突した。
この戦いは本戦が行われた関ヶ原だけにとどまらず、日本全国に戦火を広げた。
本記事では、関ヶ原の戦いに付随する各地の戦闘や、それぞれの地域で展開された「小さな関ヶ原」とも言える戦いについて紹介する。
「天下分け目の戦い」は全国で行われた
天下分け目の戦いと称される「関ヶ原の戦い」は、徳川家康と石田三成の対立を軸に、多くの大名を巻き込む大規模な戦乱となった。
それぞれの大名が東軍(徳川家康)につくか、西軍(石田三成)につくかを判断することを余儀なくされ、各地で戦いが展開された。しかし、全ての大名が即座にどちらかに与したわけではなく、戦局を見守りながら参戦を見送る者も存在した。
本戦が関ヶ原で行われたのは9月15日だが、東軍と西軍の衝突は、7月からすでに始まっていた。
7月18日には「伏見城の戦い」が勃発し、西軍の宇喜多秀家らが、家康が不在の伏見城を襲撃し、家臣の鳥居元忠が壮絶な死を遂げている。
翌19日には「田辺城の戦い」で、西軍が東軍の細川氏を攻撃し、さらに7月26日には東軍の前田氏にも攻撃を仕掛けた。
こうして西軍は、東軍の主力が北上している間に、畿内周辺での勢力拡大を図ったのである。
東軍の本隊が戻ってきた後も、各地で戦闘は続いた。
「木曽川の戦い」「合渡川の戦い」「岐阜城の戦い」では、池田輝政や福島正則といった東軍の主力が参加し、奮闘した。また、本戦が行われていた9月15日には、別働隊による「大津城の戦い」も行われている。
これらの戦いの多くは、本戦に参加した武将が関わったものであるが、一方で、遠く離れた地域でも独自の戦闘が発生していた。
各地で「小さな関ヶ原」ともいえる戦いが繰り広げられ、それぞれの思惑が絡む戦乱の一幕となった。
信州の「関ヶ原」第二次上田合戦
9月5日から8日にかけて行われたのが、第二次上田合戦である。
この戦いは、徳川家康の三男・秀忠率いる東軍の一部と、上田城を守る真田昌幸(さなだ まさゆき)・信繁(のちの幸村)親子との間で繰り広げられた。
第二次と呼ばれるのは、1585年に行われた第一次上田合戦に続くもので、この合戦では昌幸が徳川軍を撃退している。
真田家は関ヶ原の戦いにおいて複雑な立場に置かれていた。父・昌幸と次男・信繁は西軍に与したい意向を持っていた。
昌幸の妻は石田三成の妻と姉妹関係という説もあり、さらに信繁の妻は西軍の重臣・大谷吉継の娘であった。
一方、長男の信之(のぶゆき)は家康の重臣・本多忠勝の娘を妻に迎えていたため、東軍側の立場を取らざるを得なかった。
この結果、真田家は東西に分かれることとなり、信之は東軍、昌幸と信繁は西軍に与した。これは「犬伏の別れ」と呼ばれている。
関ヶ原本戦に向けて進軍していた徳川秀忠は、真田家の城を見過ごせず、上田城を攻め落とそうとした。
しかし、昌幸の巧妙な戦略に翻弄され、秀忠軍は決定的な戦果を上げることができなかった。城攻めに手間取って日数が経過し、結局、秀忠軍は関ヶ原の本戦に間に合わず、戦場への遅参という大失態を犯した。
これにより、秀忠は家康から厳しく叱責されることとなった。
東北の「関ヶ原」慶長出羽合戦
関ヶ原の戦いの発端は、上杉景勝が軍備を拡張し始めたとの報を受けた家康が、景勝討伐のために軍を北上させたことにある。
この動きにより、家康の勢力が畿内から一時的に離れた隙を突き、石田三成が挙兵した。
この報を受けて、家康は討伐軍を南下させ、関ヶ原での決戦に向かったのだ。
その後、上杉軍は最上義光の領地である出羽国に侵攻した。
上杉軍が米沢と庄内から2万5000人の兵を率いて最上領に侵攻した一方、最上軍は総兵力7000人にすぎなかった。しかも、最上軍は山形城を含む属城に兵力を分散していたため、山形城の守備兵は約4000人にとどまっていた。
この圧倒的な兵力差により、義光は不利な状況に追い込まれた。
そこで義光は甥である伊達政宗に援軍を要請し、最上・伊達連合軍として上杉軍に対抗する体制を整えた。
この戦いは「慶長出羽合戦」と呼ばれ、関ヶ原の戦いが終結した後の9月30日、上杉軍は西軍敗退の報を受け撤退した。
九州の「関ヶ原」石垣原の戦い
西軍に属した大友義統(よしむね)は、この戦乱を利用して所領の回復を目論んでいた。
かつて父・大友宗麟(そうりん)の時代に栄えた大友家も、義統の代になると急速に衰退しており、その復興を狙っていたのである。また、同じ西軍陣営の毛利家からも一定の支援を受けていた。
九州内では、島津義弘や小西行長が関ヶ原の本戦に参加し、立花宗茂は大津城の戦いに加わるなど、西軍側の武将が多数存在していた。
九州の状況だけを見れば、西軍が優勢であったかに思えた。
しかし、その西軍に立ちはだかったのが、豊臣秀吉の元側近である黒田官兵衛(如水)と、子飼い武将の加藤清正であった。
黒田家は嫡男の長政が関ヶ原の本戦に参加し、多くの兵を連れていたため、戦力は九州にほとんど残されていなかった。
にもかかわらず、官兵衛は西軍挙兵の報を受けると、すぐに兵を集め、大友義統の動きを警戒して備えを整えた。
そして、9月13日に「石垣原の戦い」が勃発し、黒田軍は大友軍を打ち破った。
しかし、官兵衛は石垣原での勝利にとどまらず、豊後から豊前、筑後へと領地を拡大した。さらに立花宗茂の柳川城も、加藤清正と協力して開城に追い込むなど、九州全土を制圧する勢いで進軍した。
しかし、関ヶ原の戦いの本戦が東軍の勝利で決着したことにより、官兵衛はそれ以上の進軍を停止した。
九州統一後、中国勢を仲間にして関ヶ原の勝者を叩く計画だったという説もある。
こうして、九州における戦いも終息を迎え、石垣原の勝利を含む黒田家の活躍は、関ヶ原の本戦での東軍の勝利と相まって評価されることとなった。
最終的に、黒田家は筑前(福岡)に52万3,000石の所領を与えられた。
おわりに
こうして振り返ると、「関ヶ原の戦い」がいかに全国規模で展開されていたかが見えてくる。
真田家による「徳川キラー」としての奮闘、最上義光と伊達政宗の共闘、そして黒田官兵衛の大胆な進軍といった各地での戦いは、それぞれに見応えがある。
興味を持った方は『真田丸』『独眼竜政宗』『軍師官兵衛』などを視聴して、それぞれの地域でのドラマチックな戦いに触れてみてほしい。各地の「関ヶ原」を楽しむことができるはずだ。
参考:『歴史道』『最上義光物語』『真田幸村歴史トラベル 英傑三代ゆかりの地をめぐる』他
文 / 草の実堂編集部
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