【明朝の冷血皇帝】 3人の美しい皇后が辿った悲劇的な最後

嘉靖帝とは

画像 : 嘉靖帝(かせいてい)は明の第12代皇帝。明世宗著龍袍像 public domain

明朝の第12代皇帝である嘉靖帝(かせいてい)は、諱を厚熜(こうそう)といい、道教に深く傾倒し、長年にわたり政務を顧みずに修仙(仙人になる修行)に没頭したことで知られる。

即位当初は政治に対して熱心で、先代からの悪政の一掃や内政改革に取り組む姿勢を見せ、「嘉靖中興」とも称された。

しかし、その治世はやがて道教への狂信と権力争いの暗雲に覆われ、幾度もの宮廷内の対立や、宮女たちによる皇帝暗殺未遂事件「壬寅宮変」まで起こった。

【宮女たちに殺されかけた明の皇帝】13〜14歳の宮女から「ある物」を採取して怒りを買う
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嘉靖帝は45年にわたる在位中、時に冷酷さを見せ、3人の皇后を悲劇的な最期に追いやったとされている。

第一の皇后 陳皇后

画像 : 陳皇后(孝洁肃皇后陈氏) public domain

大名府元城出身で、美しい容姿と穏やかな性格で知られていた陳皇后は、1522年、わずか14歳で嘉靖帝の最初の皇后に選ばれた。

当初は嘉靖帝の寵愛を受け、父親である陳万言も「泰和伯」に封じられるなど、陳皇后は華やかな生活を送っていた。しかし、時が経つにつれ、皇帝の関心は他の側室にも向かうようになり、彼女への愛情は次第に薄れていった。

嘉靖7年(1528年)のある日、陳皇后は妊娠中だったが、嘉靖帝と側室が親しげに話している場面に居合わせ、激しい嫉妬に駆られた。
嘉靖帝が側室の手を握ったのを見て、陳皇后は驚愕し、激昂のあまり茶を地面に叩きつけ、嘉靖帝の顔に茶が飛び散ってしまった。

これに激怒した嘉靖帝は彼女を地面に叩きつけ、妊娠していた陳皇后の腹を激しく蹴った。

この一撃で彼女は流産し、激しい痛みと衰弱の中で、その後も病床に伏せることになった。

それでも嘉靖帝の怒りは収まらず、陳皇后に冷酷な態度を続けた。治療を拒否され、医師の助けも得られないまま衰弱していった陳皇后は、ついに嘉靖7年10月、わずか20歳でこの世を去った。

嘉靖帝はその死に同情を示すどころか、全ての責任を陳皇后い押し付けたという。

陳皇后の死後も、その扱いは冷遇され、彼女は正式な皇后としての栄誉も与えられなかったのだ。

第二の皇后 張皇后

陳皇后の死後、次に皇后の座についたのは、張皇后であった。

張皇后は、錦衣衛の高官であった張楫(ちょうしつ)の娘で、礼儀を重んじる聡明な女性であった。彼女は嘉靖帝の意向に従い、後宮の妃たちを率いて「女訓」を学び、内向的で慎ましやかな振る舞いで皇帝に仕えた。

しかし、嘉靖帝が張皇后に道教の儀式で用いる独特な衣装を着用するよう命じたとき、張皇后はこれを拒否した。
この拒絶により、彼女は皇帝の怒りを買うことになる。

激怒した嘉靖帝は、張皇后に鞭打ちの罰を与えた上、皇后の地位を剥奪し、冷宮(らんごん)に追いやってしまった。

冷宮とは、皇帝の怒りを買った者が幽閉される恐ろしい場所で、外界から完全に隔絶された孤独な環境である。

画像 : 冷宮の生活 イメージ 草の実堂作成

冷宮とは : 中国の妃たちが恐れた冷宮送り 〜【罪を犯した后妃が生涯幽閉された地獄のような場所】
https://kusanomido.com/study/history/chinese/66072/

張皇后はその冷たい壁に囲まれ、助けも慰めも得られないまま、二年間という長い歳月を過ごした。

彼女は次第に健康を害し、精神的にも追い詰められ、ついには誰にも看取られることなく息を引き取ったとされる。(※享年不明、30代と考えられている)

嘉靖帝の冷酷な一面が浮き彫りとなったこの事件は、張皇后の死後も宮廷内外に不安を広げ、人々に畏怖の念を抱かせた。

第三の皇后 方皇后

張皇后が廃されてから10日後、嘉靖帝は新たに方皇后を迎えた。

方皇后は謙虚で献身的な性格で、後宮に道教儀式を取り入れる嘉靖帝の命に従いながら、陰で宮中の不満を抑える役割も担っていた。

先述した暗殺未遂事件(壬寅宮変)において、嘉靖帝が宮女たちによる襲撃を受けた際、方皇后は間一髪で皇帝の命を救った。

嘉靖帝は重傷を負って昏睡状態に陥り、方皇后は彼に代わって主犯者の楊金英らを凌遅刑に処し、九族にまで罰を加えた。
また、事件が起きた寝室が曹妃の宮であったため、方皇后は彼女が共謀者であると断じ、曹妃をも凌遅刑に処した。さらに宮女たちの供述により王寧嬪も凌遅刑に処した。

しかし後に、曹妃と王寧嬪は冤罪だったことが判明する。
この2人を寵愛していた嘉靖帝は、方皇后に対して複雑な感情を抱くようになった。

そして、1548年に方皇后に悲劇が訪れる。

彼女の住む宮殿で大規模な火災が発生し、彼女の寝室も炎に包まれた。

画像 : 燃える宮殿イメージ 草の実堂作成

救出を求める太監(宦官)たちが嘉靖帝に助命を請うも、彼は静かに燃え盛る宮殿を眺め、「彼女はかつて私の命を救ったが、私は彼女を救うことはしない」と呟いたと言う。

太監たちも命令には逆らうことができず、方皇后は火の中で命を落とすこととなった。

おわりに

嘉靖帝の治世は、道教への没頭と猜疑心がもたらす暴君の冷酷さが色濃く現れ、宮廷内には絶えず不安と緊張が漂っていた。

その猜疑心により、重臣は遠ざけられ、後宮の女性たちもまた、暴虐な扱いを受け続けることになった。
そして3人の皇后はそれぞれが違った理由で嘉靖帝の怒りを買い、無残な運命を辿った。

嘉靖帝の暴君としての一面はその死後も批判され続け、後世に暗い影を落としている。

参考 : 『壬寅宮変的地点 起因和事后 故宮博物院』『明代の専制政治 岩本真利絵』
文 / 草の実堂編集部

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