大坂の陣とは
戦国時代の覇者・徳川家康の最後の戦いになったのが大坂の陣である。
この大坂の陣によって豊臣家は滅亡し、応仁の乱から続いた戦国時代の大きな武力衝突は終わりを告げる。
天下分け目の決戦が関ヶ原の戦いならば、大坂の陣は戦国時代の終わりの戦いと言える。
大坂の陣に至る原因や背景と、冬、夏と2度に渡った大坂の陣について詳しく解説していく。
大坂の陣に至る背景
徳川家康は織田信長と同盟を結んではいたが、対等な同盟ではなくいつも信長の顔色を伺っていたような関係であった。
本能寺の変で信長が死去した後、家康は命からがら伊賀越えをしたものの、次は豊臣秀吉が待ち受けていた。
徳川と豊臣の初めての直接対決となった小牧・長久手の戦いは最終的に休戦し講和となったが、秀吉は再戦を望んでおり着々と準備を進めていたところ天正の大地震が起こった。
特に秀吉側の被害が甚大で結局そのまま戦は行なわれなかった。もしこの大地震が起こらなければ有利に準備を進めていた秀吉が、後北条家同様に家康を攻め滅ぼしていたという説もある。
家康陣営は局地的には勝利したものの、総合的には勝ち目はないと判断し秀吉の臣下となる。しかし家康は天下を諦めてはいなかった。
秀吉の死後、家康は天下取りに動き法度とされた大名との婚姻を開始する。
東北の雄・伊達政宗に続き豊臣恩顧の福島正則・加藤義明・黒田長政・蜂須賀家政らと姻戚関係になり天下取りの足場を固めた。
これに反発したのが前田利家と石田三成らだったが、利家が病死すると家康は露骨に動きを加速させ、ついには石田三成らと関ヶ原の戦いとなった。
この戦いは徳川VS豊臣の戦いではなかった上に、豊臣恩顧の有力大名の多くは東軍(家康方)につき結果は東軍の勝利。家康は220万石あった豊臣の所領を4分の3ほどの約65万石に削減して豊臣の力を削いだ。
慶長8年(1603年)2月12日、家康は征夷代将軍となり豊臣方は臣下となっていた家康が将軍でも、豊臣秀頼が関白になって次の政権を任されると考えていた。
しかし、二代将軍には徳川秀忠がなったことで天下は豊臣ではなく徳川に代わっていくことが明らかとなった。
慶長16年(1611年)京の二条城で家康は秀頼との会見を実現させ、その後全国の諸大名から幕府の命令に従うという誓詞を提出させたが秀頼は提出しなかった。
慶長16~18年(1611~1613年)にかけて豊臣恩顧の大名である浅野長政・堀尾吉春・加藤清正・池田輝政・浅野幸長に加え、慶長19年(1614年)には前田利長が亡くなったことで豊臣の孤立は強まり、幕府に無断で官位を賜り兵糧・浪人・武器を集め出し幕府との対立を深めた。
豊臣の臣下であった家康が秀頼よりも上にいることが許せない淀殿と、元服して立派な姿になった秀頼を見た家康は、豊臣を潰すしか徳川幕府の安泰はないとますます思い、両者の対決は避けられない所まで来ていたのである。
大坂の陣のきっかけ 鐘銘事件
慶長19年(1614年)家康は、豊臣家が再建していた京の方広寺大仏殿がもうすぐ完成という時期に、釣鐘に書かれている文字が家康を呪っている内容だと難癖をつける。
内容は「国家安康」「君臣豊楽」国家安康は家康の字を分断していると今で言う「いちゃもん」的な理由で豊臣方を責める。
有名な方広寺鐘銘事件である
秀頼の重臣・片桐且元が駿府に出向き、家康に申し開きを行おうとしますが家康は会わなかった。
混乱する豊臣方に、家康は徳川・豊臣両家の親和を示す策を出せと要求をする。
且元は「秀頼の江戸への参勤」「淀殿を江戸に人質」「国替えをして大坂城から退去」という私案を提案する。
この案に淀殿は激怒して且元を裏切り者として扱い、命が危ないと感じた且元は大坂城から退去する。
家康は、且元は豊臣の家臣であるが家康の家臣でもあり、秀頼が勝手に且元の殺害を企てたことを理由に諸大名に対して出兵を命じる。
大坂冬の陣
慶長19年(1614年)10月2日、豊臣家は旧恩ある諸大名や浪人に声をかけ戦の準備を進めるも、秀頼の援軍要請に応じる諸大名は誰もいなかった。
秀吉の残した莫大な金銀を用いて集まった全国からの浪人衆は約10万人。
彼らは関ヶ原の戦い後にお家取り潰しなどで徳川に恨みのある者、一旗揚げようとする者、豊臣の再興を願う者、豊臣への忠義を尽くす者たちだ。
中でも大名格として「大坂城五人衆」の真田信繁(幸村)・後藤又兵衛(基次)・明石全登・長曾我部守親・毛利勝永が中心となった。
しかし、歴戦の勇士が集まるもいかんせん寄せ集めの集団であり、統制が取れず作戦に乱れが生じる原因となった。
豊臣方の作戦は大野治長を中心とする「籠城派」と、真田信繁を中心とする「徳川と西国大名を分断して足止め後に籠城」という二段構えの作戦との二つに分かれた。
結局は大野治長たちの「大坂城周辺に砦を築き籠城する案」が採用され、淀川の堤を切って大坂城を浮城にしようとしたが失敗に終わる。
真田信繁は大坂城南側に真田丸を築き防御の手薄な所を強化した。
同年10月に家康は駿府を出発。江戸から秀忠らも駆けつけ全国から大名たち約20万人の兵が出兵し、大坂に集結した。
この時、豊臣恩顧の大名の福島正則・黒田長政らは江戸に留め置きとなったが、これは寝返りを恐れた家康の考えだ。
同年11月19日「木津川口の戦い」から大坂冬の陣は始まり「鴫野・今福の戦い」「博労淵の戦い」「野田・福島の戦い」と続き。11月30日に豊臣方は砦を放棄して大坂城に撤収することになる。
徳川方は大坂城の周囲を約20万の兵で包囲するも、12月3~4日の「真田丸の戦い」では真田信繁らが徳川軍を撃退する。
家康は敵の有力武将への調略を画策するも失敗に終わり、毎夜3度の砲撃の他、イギリスから購入した大砲などを打ち込み続ける。
徳川と豊臣の和議
淀殿は侍女8人が砲撃によって死んだことなどから和議の受け入れを決めて、12月18日より京極忠高の陣で和議が行われた。
徳川方は家康側近・本多正純と阿茶の局、豊臣方は淀殿の妹・常光院との間で19日に講和が決まり、20日に誓書が交換されて徳川方の砲撃は中止された。
和議の内容は
「大坂城の本丸を残して二の丸・三の丸を破壊」
「堀の埋め立て」
「豊臣家の本領安堵」
「浪人衆の不問」
「秀頼・淀殿の関東下向はなし」
などである。
大坂城の破壊と堀の埋め立ては二の丸が豊臣方、三の丸は徳川方だったが、徳川方は強硬に内堀まで埋めるなどの手段に出て、大坂城の本丸を残し丸裸状態にした。
大坂夏の陣
和議が成立後も徳川方は大砲の準備などを進めていたが、大坂城にいる浪人たちの狼藉や埋め立てた堀の復旧など、不穏な動きがある報告を家康は受ける。
慶長20年(1615年)3月15日家康は「浪人の解雇」か「秀頼の国替え」という条件を出すも豊臣方はそれを拒否して、家康は4月6~7日に諸大名へ鳥羽・伏見に集結するように命じた。
そして豊臣代表として交渉していた大野治長が、大坂城内の主戦派に襲われ負傷して交渉は決裂となる。
大坂城の浪人衆は冬の陣で解雇された者や勝ち目がないと逃げ出した者などで約78000人に減少し、籠城作戦ではなく野戦で臨むことが決定する。
同年4月26日の「樫井の戦い」から大坂夏の陣が始まり「道明寺・誉田合戦」・「八尾・若江合戦」と続き豊臣方は追い込まれる。
同年5月7日の「天王寺・岡山合戦」では真田・毛利隊らが家康・秀忠の本陣近くに突撃し、家康は切腹を覚悟するまで追い込まれてその場から逃げる。
しかし、兵力に勝る徳川方が勢力を回復して形勢は逆転、豊臣方を壊滅にまで追い込む。
残っていた豊臣方は大坂城に逃げ込み、徳川方は城に乱入して火を放ち、難攻不落を誇った大坂城はついに陥落する。
翌日の5月8日秀忠の娘・千姫の助命嘆願も受け入れられず、秀頼は淀殿と共に城内の籾蔵にて自害。側室に産ませた秀頼の幼い息子も殺害され、豊臣家は断絶した。
おわりに
大坂夏の陣が終わると徳川幕府は元号を元和と改めて「応仁の乱以降断続的に続いていた戦の世が終わり天下は平定された」と宣言した。
この2つの戦から徳川幕府は武家諸法度などで諸大名を抑え、260年以上続く大きな戦のない平和な時代に突入する。
大坂の陣は徳川家康の目の上のたんこぶ「豊臣家の断絶」という目的の他に、泰平の世の始まりという戦でもあったのだ。
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