衝撃的な展開を迎えている『VIVANT』
日曜劇場『VIVANT』第5話が放送されました。
日本でテロを計画する「テント」のリーダー・ノゴーン・ベキ(役所広司)が、乃木憂助(堺雅人)の父親であるという衝撃的な事実が判明したのです。
日本で起きるテロを防ぐ「別班」の乃木と、テロを計画する父…。
このあとの親子対決がどのように描かれるのか、次の放送に向けて、ネットでは様々な考察が飛び交っています。
乃木が所属する「別班」ですが、実際に存在する諜報組織であることは、以前の記事で書かせていただきました。
【自衛隊の闇組織】 諜報組織「別班」は本当に存在していた ~日曜劇場『VIVANT』
https://kusanomido.com/study/history/japan/70866/
では「別班」の存在が疑われるようになったのは何時ごろなのでしょうか。「別班」の名前が世に出るきっかけになった有名な事件があります。
「金大中事件」です。
1973年8月、日本の首都(東京)で突如として起こった事件は、日本と韓国の政治的緊張を一気に高めることになります。韓国の民主化を訴えるリーダーで、次期大統領候補でもあった金大中(キム・デジュン)が、東京のホテルから拉致されたのです。
事件の犯行グループに関しては、多くの陰謀や憶測が飛び交いました。
その中で事件に加担した人物として、自衛隊で特殊な役割を担っていた坪山晃三の名前が浮上します。彼の関与が疑われる中、長いあいだ存在が秘密にされていた、特殊部隊「別班」の名前が指摘されるようになったのです。
今回の記事では金大中事件を振り返りつつ、この事件を通じて「別班」の名がなぜ飛び出したのか、その経緯について見ていきたいと思います。
「金大中事件」に至る背景
1971年(昭和46年)、韓国の民主化を訴える金大中は、当時の軍事政権であった朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の対抗馬として、大統領選に立候補しました。
しかしわずか97万票差で敗れてしまいます。
大統領選挙後、大型トラックが金大中が乗る車に突っ込みます。3人が死亡し、金大中は生き延びましたが、腰と股関節に障害を負ってしまいました。この事件は朴正煕政権による暗殺工作であったことが分かっています。
翌年(1972年)、朴正煕は非常事態宣言を発布し、憲法を無視して国内を戒厳令下に置きます。海外にいた金大中は帰国を断念して、日本やアメリカの有力者と会談をしたり、海外での講演活動を行うなど、韓国の民主主義と自由選挙を求める運動を積極的に展開していました。
その一方、朴正煕の側近であった中央情報部長・李厚洛(イ・フラク)が平壌を訪問し、平壌の組織指導部長・金英柱(キン・エイチュウ)と会談。活発な議論が行われた結果、同年7月に南北共同声明が発表され、祖国統一促進のための原則が合意されました。
この歴史的会談によって李厚洛の韓国国内の評価は一気に高まります。「ポスト朴正煕」との噂さえ囁かれるようになりますが、ある失言によって一気に窮地に立たされたのです。
1973年(昭和48年)、ある談話のなかで李厚洛は「大統領はもうお年だから、後継者を選ぶべき」と発言。これに激怒した朴正煕は、李厚洛の関係者を拘束・処罰します。
大統領の機嫌を損ねてしまった李厚洛は名誉挽回のために、朴正煕の政敵である金大中を拉致する計画を立てたのです。
日本で拉致された金大中
1973年7月、金大中は日本の自民党左派の宇都宮徳馬らの招待を受け、講演のために東京を訪れます。日本滞在中は、身の安全のために2〜3日ごとにホテルを変え、日本人の偽名を使用していました。
8月8日、金大中は東京のホテルグランドパレスで、民主統一党党首・梁一東(ヤン・イルドン)との会談を行いました。しかし会談を終えた直後、彼は6〜7人の男たちに襲われ、自動車に乗せられます。彼は関西方面へと連れ去られ、工作船で日本を出国しました。
船上で足に重りをつけられた金大中は、そのまま海に投げ込まれて殺害されることを覚悟したそうです。
しかし、事件を察知した海上保安庁のヘリコプターが工作船を追跡。照明弾を投下して威嚇したため、拉致実行犯は金大中の殺害を断念します。彼は韓国の釜山まで連行され、ソウルで解放されました。
白昼の日本で起きた前代未聞の事件を受けて、犯人に関しては様々な憶測が飛び交いました。
このとき事件に関係がある人物として、坪山晃三氏の名前が浮上します。元陸上自衛隊3佐で、陸上幕僚監部第二部別班などを経験した坪山氏ですが、このときは自衛隊を退官しており探偵会社を経営していました。
実際のところ、拉致の依頼があったことを坪山氏は認めていますが、彼は拒否したと証言しています。
「金大中事件」のその後
金大中事件のあと、朴正煕政権は最悪の結末を迎えます。
1974年8月、朴正煕の夫人・陸英修(ユク・ヨンス)が、北朝鮮の工作員だった文世光によって射殺(暗殺)されてしまったのです。
そして1979年10月、朴正煕も自らの側近だった中央情報部長・金載圭(キム・ジェギュ)によって射殺されました。
一方の金大中は、1997年12月に行われた大統領選挙で見事当選を果たします。
第15代韓国大統領に就任した金大中は「太陽政策」と呼ばれる対北朝鮮政策を推進。2000年6月には南北首脳会談を実現しました。この功績によって同年10月、金大中氏はノーベル平和賞を受賞しています。
金大中事件に関しては、現在も犯人は捕まっていません。2007年に韓国政府も事件への関与を認めましたが、具体的な責任者や実行者は明らかにしていません。
様々な事情によって曖昧にされている、といった形となっております。
「別班」に所属していた坪山氏
金大中事件に関与していると疑われた坪山晃三氏は、自衛隊で特殊な任務に当たっていたことで知られていました。金大中事件によって坪山氏の名前が出たことで、自衛隊に存在する秘密組織「別班」が公に知られることになったのです。
この「別班」は、自衛隊にある正規の編成表には記載されておらず、秘密裏に活動を行っていた特殊部隊でした。正式には「陸幕2部情報1班特別勤務班」と呼ばれ、略して「特勤班」とも称されていました。
情報1班は国内外の情報を集約・分析する部署として機能しており、この部署の存在は秘密ではありません。
しかし、そのなかに「別班」という秘密のチームが存在していたことは、自衛隊内部でもほとんど知られていませんでした。
金大中事件から約2ヶ月後(1973年10月)、坪井氏が陸幕2部「別班」のOBであるという情報がメディアに掲載されます。評論家の藤島宇内氏が自衛隊関係者からの情報を集め、週刊誌でこの事実を公表しました。
こうした経緯から「別班」の存在が疑われるようになったのです。
噂が広まった背景には、当時の防衛庁や自衛隊の対応にも問題があったとされています。坪井氏が所属していた「別班」の存在を防衛庁が隠蔽したことが、メディアや野党の疑念を招き、さらに大きな疑惑を生む結果となったからです。
(後編に続く)
参考文献:週刊朝日ムック(2010)『未解決事件ファイル 真犯人に告ぐ』朝日新聞出版
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