ある大物芸能人のスキャンダルが、年の瀬のメディアを賑わせました。
現時点では週刊誌側からの情報だけになるため、あくまで疑惑の段階に過ぎない状況です。
SNSなどでは既成事実のように語り、当事者や関係者に対して誹謗中傷を繰り返す人もいます。
19世紀の哲学者フリードリヒ・ニーチェは、「神への信仰」は弱者のネガティブな感情から生じたものであり、それが人間本来の生き方を抑圧していると主張しました。
今回の記事では、ニーチェの哲学を参考にしながら「人間の弱さ」について考えたいと思います。
あらかじめご理解いただきたいのは、今回週刊誌で報道された芸能人を擁護する、または批判する意図は全くありません。
ニーチェのキリスト教批判
1000年以上にわたってヨーロッパは、キリスト教に基づく中世時代を送り、神を中心とした文明を築いてきました。
しかしニーチェは、ヨーロッパ文明を覆す驚くべき主張を展開します。
ニーチェは言います。
「神とは弱者の恨みや嫉妬といった負の感情から作り出された存在であり、神への信仰こそが人間本来の生き方を抑圧している」。
ニーチェは、西洋社会の中心をなすキリスト教を基盤とした神への信仰について、その起源を弱者のネガティブな感情に求めました。
「神への信仰とは、もともと現世で苦しむ弱者が、自分を苦しめる他者への恨みや嫉妬の感情を昇華させたに過ぎない」と言うのです。
弱者は自分を助けてくれない全能の神を憎みながらも、それでも信仰心を保とうと努力します。その結果として「他者への復讐を期待する信仰」から「他者のために自分が苦しむ信仰」へ、その在り方を変質させていきました。
つまり信仰(宗教)とは、弱者が現世の苦しみに対してある種の精神的逃避を見出すことで成り立っている側面があります。
しかしニーチェは、「このような信仰こそが人間の自然な欲動を抑圧し、本来の生きる意志を奪っている」と指摘します。
信仰とは弱者が作り出した自己保身の装置にすぎず、人間の生き方を損なう偽りだと批判したのです。
道徳的価値観の逆転
次にニーチェは、価値観の逆転についても指摘しました。
価値観や道徳性の判断基準について、ニーチェは大きな転換があったと主張します。
たとえば古代社会では、強大な力を持ち尊厳に満ちた生き方が「善」と見なされました。反対に弱さや無力さ、卑屈さが「悪」であるとされたのです。
しかしながら、こうした自然な価値基準がキリスト教が誕生してから逆転していきます。イエス・キリストの死は、無抵抗で弱々しい受難の体現でありながらも、善なる犠牲として称揚されました。
キリストの死によって「謙虚、寛容、無抵抗、虚心」といった、人間の弱さが新たな「美徳(善)」として君臨したのです。
ニーチェからすると、この道徳的な価値判断の大転換こそが、人間が本来持つ自然な生の様式を損なう結果を招いたことになります。
人間の弱さや無力さを「善」の次元に高めて称賛するキリスト教の倫理観は、弱者に有利な新しい価値基準を作り出したに過ぎないというわけです。
その意図の中には、偽善と自己保身の妬ましさ(ルサンチマン)が含まれているという厳しい指摘をしています。
「道徳的な価値判断の逆転」という象徴的出来事がイエス・キリストの死であり、キリスト教の台頭によって新しい価値観が世界に広まっていった、とニーチェは考えたのです。
弱者の自己正当化
ニーチェによれば、金銭や権力への欲求そのものは決して悪いものではありません。むしろ大きな目標を持ち、野心を胸に人生を燃やしていくのであれば、金銭や権力を手に入れることは自然な感情であると考えます。
実際に古代の価値観においては、金銭や権力といった世俗的成功への欲求そのものが「善なるもの」と位置づけられていました。自らの力で金や権限を獲得することが「強さの証明」であり、称賛される対象だったわけです。
ところが今日、社会の大部分を占める「弱者」たちは、高い地位や金銭を手にすることができません。この現実を直視できず、自分たちの「無力さ」に対するコンプレックスが、金銭や権力への批判となって表現されているに過ぎないのです。
金銭や権力といった目標を目の前にしても、弱者は全力で挑戦しようとはしません。なぜなら弱者は努力できないからです。失敗への恐れや自信のなさから、先の見えない努力を避ける傾向があります。
しかしニーチェからすると、人生と向き合い成し遂げるべき目的(高い壁)があるならば、人間は努力して乗り越えていくべきものなのです。
言い換えれば、努力しなければ獲得できないものの価値を否定し、逆に無欲さを肯定する態度は虚偽になります。自分の無力さを正当化し、自己保身するための幻想に過ぎません。
ニーチェは「弱さへの美化」を痛烈に批判しています。
弱者たちの自己正当化を否定することで、人間が持つ本来の姿を取り戻そうとしたのです。
そもそも自分たちにはあまり関係のない話
前述しましたが、今回のスキャンダルは現時点ではあくまでも疑惑の段階です。少なくとも事実が明らかになるまで、安易な発言や判断は慎むべきでしょう。
よくよく考えてみれば芸能人のスキャンダルなど、どうでもいい問題です。
ニーチェの言う通り、SNSを通じて他者を批判したところで、自分自身を成長させることはできないでしょう。
参考文献:飲茶(2015年)『史上最強の哲学入門』河出書房新社
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