レインボーブリッジ、フジテレビ、アクアシティ、ダイバーシティなど多くの観光地、ショッピングセンターで賑わうお台場。
東京湾の水質が改善されたことで、夏には海水浴も楽しめるようになった。だが、その発展もここ20年ほどで急速に行われたものである。
では、それ以前のお台場はどのような場所だったのか?そもそも、お台場の由来は?
今回はお台場を含め、現在では使用されていない東京湾の軍事施設について解説する。
お台場
※画像 第六台場
お台場の誕生は、江戸時代末期にまで遡る。
ペリー艦隊が来航したことに端を発する開国問題により、神奈川県の浦賀よりもさらに江戸湾内の防衛が焦眉の急とされた。
江戸の町を黒船の大砲から守るべく、幕府は品川沖に洋式の砲台を建設させたのである。最終的には11基の埋立地に砲台が設置される予定となった。翌年のペリー艦隊再来を控え、それに向けて急ピッチで工事は進められた。
しかし、第一、第二、第三台場を建設中に黒船は浦賀に姿を見せる。一度は品川沖まで艦を進めるも、この台場を見て横浜まで引き返したという。
その後、第一から第三台場が完成、第四、第五、第六台場も続いて完成し、江戸湾の守りは固められた。欠番の台場は未着手か工事が中断されることとなった。
現在残るのは、お台場エリア・レインボーブリッジ付近の第三台場が徒歩で渡れる公園となっているほか、開放されていない孤島の第六台場が残っている。
そもそも「台場」とは幕府が設置した砲台、またはそれを含めた施設のことだったが、江戸の台場は幕府のお膝元であることから「御台場」と敬意を払ったのが由来とされる。
しかし幸運にも設置された大砲は、一度も使用されることはなかった。
東京湾の海堡
明治になり西洋の艦隊から帝都・東京を守るべく後の『東京湾要塞』に繋がる構想を打ち出したのは、山縣有朋であった。
当時の脅威は軍艦だったため、東京湾内でもっとも幅が狭くなる浦賀水道を囲む形で軍事施設を建設することとなった。
※画像 浦賀水道航路。出展『関東地方整備局港湾空港部ホームページ』
また、海上には千葉県富津岬から神奈川県横須賀市沖にわたり、3つの人工島を造成、そこに砲台などの軍事施設を設置した。一連の工事は長期的に行われ、1895年には「東京湾要塞司令部」も置かれたのである。
このとき造成された人工島は「海堡(かいほう・かいほ)」と呼ばれた。海上要塞の一種である。
さらに横須賀沖の猿島も要塞化され、この4島で防衛ラインを築いたのだ。
その後は中央の第二海堡、横須賀川の第三海堡が関東大震災で被災するも、第一海堡は被害が軽微だったために太平洋戦争終了まで運用された。
第二海堡
※画像 第二海堡(Google Earthより)
関東大震災により被災し、その年内に廃止された第二海堡だったが、太平洋戦争中は再び日本軍がここに対空砲を設置した。終戦後はアメリカ軍によって第一海堡とともに施設は爆破処理された。
しかし現在では海上保安庁によって第一、第二海堡には灯台が設置され、さらに第二海堡は消防演習場としても使用されている。
これはこの二つの海堡が東京湾の航路を挟む形で造成されたためであり、航行の安全のために灯台が残されたのだ。撤去することも可能ではあるが、この海域の水深は最大で約12mと浅いことから、撤去したとしても大型船が航行するにはさらに海底を掘らなければならない。
そのため現在も一般人は立ち入り禁止となっているが、沖合いにはっきりと見えるほどに第二海堡はその姿を留めている。
なお、日本テレビ系「ザ!鉄腕!DASH!!」で、TOKIOのメンバーが生態系調査のために上陸したことでその存在も広く知られることになった。
猿島
※画像 猿島の要塞跡
横須賀沖にも『東京湾要塞』を構成した島がある。
東京湾でも最大の自然島「猿島」だ。
実はこの猿島こそ、幕末に国内初の台場として完成したものだった。明治になり要塞化されてレンガ造りの施設が構築された。太平洋戦争においてもここの砲台が火を吹くことはなかったが、そのおかげで直接戦渦に巻き込まれることなく、施設の多くが現存している。
砲台も大砲が撤去された以外は台座も残されており、いかにも本格的な要塞だったことを偲ばせる。
そもそも横須賀は太平洋戦争期には「横須賀鎮守府」が置かれ、海軍の一大拠点となっていた。現在でも海上自衛隊や、在日米海軍の基地があるのはその名残りだ。
現在では無人島だが観光地として整備され、船で渡ることができる。
要塞の跡も見学できるので、貴重な場所といえるだろう。
最後に
これらの遺構は、航空機の進化と共にその役目を終えた。
しかし、そのおかげで遺構マニアにはたまらない聖地として現存することとなったのだ。
台場と猿島だけは今も一般人が入れる場所なので、機会があればぜひ行ってみてもらいたい。
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