幕末明治

【明治初の猟奇的殺人】 お茶の水、美人女性死体遺棄事件 〜「睾丸を強く握られたことで気が遠くなり絞殺」

残忍な事件発生

お茶の水、美人女性死体遺棄事件

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明治30年(1897)4月27日午前5時頃、東京市本郷区湯島2丁目(現・文京区)の女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)前のお茶の水川(神田川)の土手に、「全裸の女性の死体」があるのを通行人が発見し通報した。

本郷警察署から係官が来て、それから東京地方裁判所の予審判事、検事なども医師と共に出張して来て検視を行った。

被害者は色白の女性で首に絞められた跡があった。顔には10ヶ所以上の切り傷があり、鼻においては薄皮でぶら下がっている状態であった。
周囲には、切り取られた被害者の髪の毛が散乱していたという。

状況からして、何者かが女性を絞殺して死体を遺棄したのは確かであった。しかし、なぜ絞殺だけではなく遺体にこのような酷い仕打ちを行ったのであろうか?

被害者の女性の身元は不明で、捜査は難航した。

この事件は世間の人々から注目されて大きな話題となり、新聞でも大きく取り上げられた。

警察は現場周辺地域の戸口調査を行うと、27日頃から夫婦喧嘩の後に行方不明になっている女性がいることを突き止めた。

女性は牛込区若宮町(現・新宿区)の御世梅この(40歳)といい(※以降コノと記す)内縁の夫・松平紀義(39歳)と同居していたが、2人は頻繁に夫婦喧嘩をしていたという。

しかも、コノの姿が見えなくなった後、紀義が自身の家の裏の井戸端に出て、彼女の着物や下着を洗っていたのを近所の人が目撃していた。

警察は5月8日に紀義を拘引し、牛込警察署内で取り調べをしたが、紀義は犯行を否認したのだった。

コノと紀義の素性

お茶の水、美人女性死体遺棄事件

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被害者の御世梅コノは、千葉県平郡佐久間村(現・南房総市)の相応の資産のある農家に生まれた。

10代後半頃に上京し、下宿屋などで奉公していたが長続きはしなかった。その後、麹町区(現・千代田区)の湯屋に住込み、湯女になって働いた。
湯女は浴場で客の接待をしたりするが、その性質上、客と関係を持つことがあったという。

ある時、その湯屋に客として来ていた車夫と関係を持ち、牛込白銀町に世帯を持った。しかし、コノは夫の稼ぎを考えずに派手な暮らしを好んだため、すぐに生活は成り立たなくなった。
一旦2人はコノの故郷に帰り、そこでしばらく生活をしていたが、再び上京して花屋の商売を始めた。夫婦で懸命に働き顧客も増えていき、貯金も貯まっていった。
商売は順調だったが、それに反して夫婦仲は悪くなっていざこざが絶えなくなり、ついには明治19年(1886)4月頃に別れた。

その後、コノは男から男へと移る生活を送り、住む場所も変えながら、金に困ると実家から無心してもらったり、時には湯女をしたり酌婦をしたりしていたという。

そのような生活をしている中で知り合ったのが、松平紀義であった。

紀義は自称・元肥前島原藩士として、本姓も「片桐」といったが松平の姓を名乗り、明治維新前の戦いで活躍したと偽っていた。
親族の縁故を頼って福島や新潟に住み、また弁護士の資格を持っていないのに訴訟や談判を取り扱うことを生業にしていたという。人を脅して金を請求するなど悪事も多かったようである。

紀義とコノは性質が似ていることもあり、まもなく親密な関係になった。

公判と判決、紀義がコノを殺害した動機とされた内容

紀義の取り調べは、予審判事によって進められ予審決定書が作成された。認められた内容は主に次のようなものであった。

明治28年(1895)2月、紀義たちは牛込若宮町の一軒の長屋で同居を始めた。この時、紀義は2人の男女の子供を伴っていた。
男の子は榮長(11歳)といい、紀義と前妻の間の子供である。女の子はのぶ(12歳)といい、別の女性の連れ子であったが、紀義の元にのぶをおいて女性はいなくなったという。

同居を始めた当初は問題はなかったが、紀義がコノの貯金を使って高利貸しを営むようになった。そして時々損をすることがあると夫婦喧嘩になっていた。

夫婦の口論は頻繁にあり、近所の人々もよく耳にしていたという。

お茶の水、美人女性死体遺棄事件

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また、コノは子供達に対しても些細なことで大声を上げて叱りつけていたという。コノは外出すると2、3日帰らないことが時々あり、紀義はコノに別の男がいるのではと疑っていた。

明治29年(1896)12月頃、紀義はコノの着物を知人に預けて自由に外出出来ないようにした。コノは不満を募らせ、酒を飲んでは紀義に文句や悪口を言うようになった。

明治30年(1897)4月26日午後1時頃、榮長とのぶが喧嘩をしたため、コノは2人を叱った。しかし、コノの怒りが収まらないため紀義はコノに酒をすすめて一緒に飲んでいた。

しばらくして酔ったコノが外出しようとしたので、紀義がそれを止めるとコノが怒り出した。紀義はなんとかコノを寝かせたが、コノの日頃の行いに対しての憎しみを抑えられなくなり、ついにコノを殺害しようと決めた。

この日は神楽坂の毘沙門天の縁日で、紀義は子供達を祭りに行かせた。その間に殺害方法などを考えていると、日暮れ頃に2人が帰ってきたため「毘沙門のおみくじを買ってこい」と言って、再び2人を外出させた。

そして紀義は熟睡しているコノの首を両手で絞め、殺害した。

夜に帰ってきた2人を再び外出させると、紀義は鋭利な刃物でコノの顔を10ヶ所切り付け、さらに髪を切った。
27日午前0時頃、遺体を毛布に包んで背負い、お茶の水川の土手の上まで運び、そこから川に向かって投棄した。その後、自宅に戻った。

明治30年(1897)10月に開かれた公判では、東京地方裁判所に大勢の傍聴人が集まり、公判廷に入れなかった人々が廊下に溢れていたという。

紀義は、謀殺罪と死体毀棄罪に問われたが起訴事実を否認した。検察側は死刑を求刑し、弁護側は無罪を主張した。
両者は論争を続けたが、同年12月1日に紀義は※無期徒刑の判決を言い渡された。(※旧刑法の徒刑の一つ。終身、その刑に服するもの)

両者はこの判決を不服として東京控訴院に控訴した。明治31年(1898)11月、控訴院は検事の起訴状に不備があったとして検察側の控訴を棄却し、原判決を取り消した。

その後、審理は宮城控訴院(現在の仙台高等裁判所)に移された。

明治32年(1899)3月28日、宮城控訴院で審理が始まり、その法廷で紀義は初めて犯行を詳しく自供したのだった。

紀義の自供 「足を刺された上に、睾丸を強く握られた」

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紀義が自供した内容は、主に次のようなものであった。

明治30年(1897)4月26日午後1時頃、私(紀義)が外から家に帰ると、コノが1人で火鉢の側にいて面白く無い顔をして座っていた。

私が「どうしたのだ?」と聞くと、コノは「子供達が喧嘩をしていくら叱ってもいうことをきかない。あなたが酒を飲み歩いて子供達を教育しないから」などと言った。
私は「今日のところだけは勘弁してくれ」と言って、子供に酒を買いに行かせて仲直りのために飲み始めた。

しかし、また喧嘩になり、コノは怒って「芸者と酒でも飲んで来よう」と言いながら羽織を引っ掛けて出て行こうとした。
私が止めるとコノは癇癪を起こし、近くに置いてあった小刀を取り私の足を刺した。さらに悔し紛れに両手で私の睾丸を掴んで離さなかった。

私は気が遠くなるほど苦しかったので、右手でコノの襟先を取った。しかし、そこが喉先だったのかもしれない。
私はしばらく意識が朦朧としており、気がつくとコノが側に倒れていた。

私は痛みを和らげるために睾丸を塩で揉んでおき、裏の八幡様で1時間ばかり佇んでいた。

それから家に戻ったが、コノがまだそのまま倒れていたので、私は「いい加減起きてもいいじゃないか」といいながらコノを見ると、顔色が変わっていた。

脈もあるかどうか分からず温もりは少しあるように思えたが、私も慌てており確かなことは分からなかった。

病院に連れて行くために辻車(人力車)に一緒に乗り、向かった。

画像 : 明治時代の御茶ノ水 パブリックドメイン

しかし、移動している途中で大便がしたくなり、お茶の水川の土手の中ほどで済ましている間に、車夫はコノをその場に残して逃げてしまった。
コノは既に亡くなっており、私はこのまま自首しようと思ったが、子供の将来が心配になり心が弱ってしまった。

それで1度家に戻って息子の榮長を起こし、この世の別れのつもりで色々なことを話しているうちに決心が鈍ってしまった。

しかし、コノをそのまま放置しておくわけにはいかず、コノの顔はこの辺りの刑事も知っているため、何としても隠さなければならないと思った。

そして衣類をはぎ取り、顔に傷をつけた。
遺体を投棄する時も、泣く泣く遺体に対して「前世のどのような因縁で、このようなことになってしまったのか」といって水葬にした。

証人達の言っていることは嘘である。私は金貸業をしていたので「人々から恨まれる者」と見られて、こぞって悪漢無頼のように言われている。

自主する決心が緩んだのは、一生の不覚である。

私がコノを殺害したのは事実だが、決して金欲しさのためでは無く、世の中の人々が思っているような大悪人では無いことだけは分かってほしい。

紀義は出所し、寄席に進出

紀義の供述にはあやしいところが所々にあり、また供述の一部を訂正することもあった。

そして明治32年(1899)4月4日の判決では、謀殺罪での無期徒刑では無く、罪を犯す意思の薄い故殺罪での無期徒刑になった。
5月19日、大審院は紀義の上告を棄却し、無期徒刑が確定した。

その後、紀義は北海道の刑務所に服役していたが、大正中頃に特赦放免になって横浜に移り住んだ。
そして寄席に出演するようになり、自身の犯行の懺悔談を口演したのだった。

興行主は、殺人歴のある紀義に懺悔話を語らせることで客寄せしていたという。紀義の寄席進出は話題にはなったものの業界からの反発があり、結局寄席で稼いでいくことは出来なかった。

それから紀義は、盗みを働いて再び逮捕されたが、どのような処分になったのかは不明である。

参考文献 お茶の水美人死體遺棄事件 (明治以降大事件の真相と判例 国立国会図書館デジタルコレクション) 盲問答:お茶の水女房殺 小岩村亭主殺 (国立国会図書館デジタルコレクション) 寄席囃子 (河出書房新社)

 

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