戦前、絶対的な権限をもつ戸主を頂点とする「家制度」では、妻の立場は弱く、経済的な自立も離婚も叶わずに理不尽な結婚生活を送る女性も少なくありませんでした。
大正時代の猟奇殺人事件「龍野六人殺し」で犠牲になった妻は、嫁家で忍従の日々を送ったあげく、家族を皆殺しにした夫の罪をかぶり自ら命を絶っています。
なぜ、彼女は夫の言いなりになったのでしょうか?「龍野六人殺し」の闇に迫ります。
凄惨をきわめた犯行現場
大正15年5月16日の夜更け、兵庫県龍野町(現・たつの市)の麹製造業の次男・高見次夫(35歳)は、家族が寝ている1階の六畳間へと入って行きました。
その日、父親の太蔵と弟の五郎は大坂へ行っており、家には母親と姪、次夫の妻と子どもが残っていました。
夕食の味噌汁に入れた睡眠薬のおかげで、家族は深い眠りに落ちています。
次夫は部屋に戻って酒をあおり裸になると、準備していた凶器を手に再び寝室へ向かいました。
まず、鑿(のみ)を母親のツネ(58歳)の頭部に強く打ち込み、次に姪の朝子(12歳)とアヤコ(8歳)の首を出刃包丁で突き刺し、二人を即死させます。
そしてツネの隣に寝ていた娘・晴子(5歳)の頭部を木槌で殴打し、その後全員の頭や顔、背中に五寸釘を打ち込みました。
布団の上に横たわった4人の死体を確認すると、次夫は井戸で血を洗い流して着替えをし、深く眠っていた妻・キクエ(28歳)を揺り起こしました。
惨劇を目にしたキクエは恐怖のあまり逃げ出し、2階へ駆け上がります。屋根伝いに隣の分家に行こうとしたキクエを、次夫は追いかけて連れ戻し、犯行の全責任を負って自殺するよう言い聞かせました。
キクエは、まだ生きていた息子・基一郎(4歳)と娘・妙子(2歳)を守るために、次夫の言いなりになることを承諾し、「義母を殺しました。私は死にます。基一郎と妙子は立派に育ててください」という内容の遺書を書かされました。
しかし、基一郎と妙子を生かしておくと自分の犯行が露見すると考えた次夫は、二人を絞殺。
キクエは動かなくなった妙子に晴れ着を着せ、自身も嫁入り道具の晴れ着に着替えた後、妙子の遺体をおぶり、縊死しました。
次夫はキクエが事切れたのを見届けてからその場を離れ、2時間後に発見者を装って隣家に駆け込み、龍野署に通報させたのです。
当初は「姑にいじめ抜かれた嫁の犯行」とされた
第一発見者として警察で事情聴取された次夫は、「事件が起きた時は麹室で寝ていて、犯行に全く気付かなかった」と語りました。
そして、「母のツネは日頃から口やかましく嫁いじめをするような人で、ツネにいじめ抜かれたキクエの積年の恨みが爆発したのだろう」と述べました。
しかし、警察の入念な捜査の結果、新たな証言が浮上します。
次夫の家と壁一枚隔てて住んでいる分家の人たちが、犯行の一部始終を聞いていたのでした。
分家の人々は、キクエが屋根をつたって隣家に助けを求めたものの鍵がかかっていて入れず、追って来た次夫に言い含められて自宅に戻って行ったこと。そしてキクエが部屋に連れ戻された時、基一郎の「父ちゃん、それなに?」という話し声が聞こえたことを証言しました。
「麹室で寝入っていて何も知らなかった」という次夫のアリバイは崩れたのです。
次夫が凶行に及んだ理由
高見家は代々麹屋を営む旧家で手広く商いをしており、5~6万円(現在の1億円近く)の資産を有していました。
4人兄弟の長男・基夫は関東大震災で亡くなり、その遺児である朝子とアヤコは高見家に引き取られ、ツネはとても可愛がっていました。
次男の次夫は元来素行が悪く、仕事にも身が入らず、女と見れば片っ端から手を出し、金に困れば店の麹や米を親に内緒で売るという男で、親からは見放され、35歳になっても家の跡目も継げず、店も任せてもらえないありさまでした。
三男は幼いころに養子に出され、四男の五郎は龍野中学の学生でした。父親の太蔵は特に五郎を可愛がっており、長男が亡くなった今、財産は五郎と基夫の遺児に分配し、次夫には屋敷と麴の営業を譲ることになっていました。
次夫はこれに腹を立て、「家計を握っている母・ツネを殺さない限り全財産は手に入らない」と思い始めます。
犯行の前年、硫酸、殺鼠剤、カルモチンなど準備し、キクエに一家みな殺しの計画を持ちかけましたが、キクエが承知しなかったため計画は実行されませんでした。
しかし、事件当日、父親の太蔵が財産分与の手続きをするために末弟の五郎を伴って大阪へ行ったことから、自分の家督相続がなくなったと思った次夫は、凶行に及んだのでした。
昭和2年5月17日、神戸地裁で求刑通り死刑判決が言い渡され、昭和3年2月3日、死刑が執行されました。
絶望と諦念の中でキクエが選んだ道
士族の家で育ったキクエは、元藩主・脇坂子爵家で女中奉公をした後、高見家に嫁ぎました。
姑のツネは家計をがっちり握っており、嫁にはびた一文使わせず、キクエは嫁入りの時に作った着物を縫い直して着ていたそうです。
嫁いびりやクズ夫の仕打ちに辛抱に辛抱を重ねたキクエでしたが、時々泣いて実家に帰ったこともありました。
しかし、父親からは「嫁に行ったからには、二度と家の敷居をまたぐな」と言われており、キクエには帰る家がありませんでした。
龍野六人殺しが新聞で報じられたとき、キクエは「家制度の犠牲者だ」と世間で評されました。
意地悪な姑と、自分や子どもにも一滴の愛情も注がないろくでなしの夫。それでも彼女は嫁・妻・母の役割をこなし、「家」を維持していかなければならなかったのです。
帰る家もなく逃げ出すこともできない生活の中で、キクエのたった一つの心のよりどころは、子どもたちでした。
その子どもたちまでも失い、自殺しろと詰め寄られた時、彼女にとってこの世界は絶望と諦念しかなかったのでしょう。
冷たくなった幼い娘に晴れ着を着せ、自らも一張羅の小紋縮緬を身にまとい、死んだ後も絶対放すまいと娘をかたく背中にくくりつけ、彼女は自ら命を絶ちました。
キクエは、あの世で子どもたちと自分だけの新たな人生をやり直そうと考えたのかもしれません。人生の再出発に、彼女は死出の旅を選んだのでした。
参考 :
小泉輝三朗 著『三十九件の真相 : 秘録大正・昭和事件史』,読売新聞社,1970. 国立国会図書館デジタルコレクション
有恒社 編『明治大正昭和歴史資料全集』犯罪篇下巻,有恒社,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション
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