※フランス外人部隊
創設以来、180年に及ぶ歴史の中で、のべ60万人以上が軍務についたフランス外人部隊
ナポレオン3世の第二帝政下で、クリミア戦争、イタリア統一戦争、メキシコの内政への武力介入などに派遣され、多方面で戦争を繰り広げ、フランス外人部隊は各地の戦闘で活躍した。
二度の世界大戦も経験した外人部隊は、戦後間もなく最大の激戦を迎えることとなる。
第一次インドシナ戦争の決戦となったディエンビエンフーの戦いについて調べてみた。
仏領インドシナ
※1941年、サイゴン市内の日本軍
第二次世界大戦が勃発し、フランスがドイツに敗れると、フランスの植民地であった仏領インドシナ(ベトナム)には、日本軍が進駐することになった。
その後、大戦中にはフランス軍と日本軍による共同統治という奇妙な構図が出来上がったが、日本が戦争に敗れるとベトミン(ベトナム独立盟会)を結成して独立運動を展開していたホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の独立を宣言。
1945年9月のことであった。
しかし、フランスはこれを認めず、再びインドシナを支配しようと軍隊を派遣する。これに対し、ホー・チ・ミンは独立のための武力闘争を開始した。
50万の将兵を率いるフランスのインドシナ派遣軍総司令官ナヴァール将軍は、火砲や航空機を総動員してベトミンを掃討しようとした。だが、中国共産党の支援を受けたベトミンは農村や山林に潜み、ゲリラ戦を展開してフランス軍を苦しめる。そうしたベトミンの抵抗もあってインドシナでの戦いは長期化し、疲弊したフランス軍はこの戦いの落としどころを模索し始めていた。
フランス軍の決戦計画
※クリスティアン・ド・カストリ
ナヴァールはある地点に拠点を築き、それを囮としてベトミンを誘い出し、敵主力軍を決戦に引きずり込むという作戦を立てた。ベトミンはゲリラ戦を得意としていたが、いざ集結すれば大軍になるほどに組織化が進んでいたのである。
基地の建設場所は、ラオス国境に近い盆地帯のディエンビエンフーが選ばれた。そこには旧日本軍の飛行場跡があり、空からの物資補給も可能だったからだ。
1953年11月20日、空挺部隊がディエンビエンフーに降下、基地周辺一帯を確保した。彼らが滑走路を整備したことで航空機による物資輸送が可能となり、13,000の将兵と、火砲や戦車が運び込まれた。基地司令官に就任したクリスティアン・ド・カストリ大佐は基地周辺に防御陣地を築くよう命令を下す。
こうした情報はすぐにベトミンにも伝わった。ボー・グエン・ザップ将軍は、フランス軍を包囲するチャンスだと判断し、5万のベトミン兵をディエンビエンフーに集めた。12月以降、続々と集結したベトミン兵は、フランス軍陣地から見えないように基地周辺のジャングルや山の中に布陣し、塹壕や山の斜面に火砲を設置していった。
これには、この地方特有の雨と霧がフランス軍の視界を妨げたことも有利に働く。こうして、翌年1月までには5万のベトミン兵がディエンビエンフー周辺に集結を終えていたのである。
フランス軍の戦力
※パトロールを行う外人部隊
フランス軍の編成の中核は外人部隊によるものだった。
精鋭の第1外人落下傘連隊、同じく第2外人落下傘連隊、第2外人歩兵連隊、第3外人歩兵連隊、第13外人準旅団、その他歩兵17個大隊、砲兵3個大隊、計1万6千にも及ぶ兵力が投入された。17個歩兵大隊中、7個大隊が外人部隊という計算になる。
この時期、フランス外人部隊には多くの志願者が集まっていた。本国で入隊した兵士の多くがドイツ国防軍や武装親衛隊出身であり、中には部隊ごと志願したケースも見られる。
フランス本国では戦後の疲弊により、自国軍だけではこの難局を乗り越えられないことから、身分さえ偽ればかつての敵国だったドイツ軍やイタリア軍の元兵士も公然の秘密として入隊を認めていた。
仏印進駐によりインドシナに残った日本兵も現地採用され、ディエンビエンフーの戦場にはナチス・ドイツの軍歌が鳴り響いていたという。後に「今度の戦争はイタリア抜きで、ドイツと日本で戦おう!」というジョークが生まれた。
ドイツ国防軍 軍歌↓
このように士気も高く、実戦経験豊富な兵士が集う外人部隊だったが、装備の面では貧弱で、歩兵の小銃の多くはアメリカ軍から供与されたM1カービン、M2カービン、戦車もアメリカ軍のM24軽戦車と戦後の余剰品を回してもらう状態であった。国産のMAT-49サブマシンガンが広く供給されたのは後のアルジェリア紛争になる。
※MAT-49
決戦
※ディエンビエンフーの戦い 中央がハノイ。左のラオス国境付近にディエンビエンフーがある。
2月に入るとベトミンは小部隊を繰り出し、フランス軍の外郭防衛陣地への攻撃を開始した。さらにディエンビエンフーを見下ろす山の斜面に築かれた砲兵陣地からの砲撃も開始される。
フランス軍は、ベトミンには長距離を砲撃できる火砲を装備していないと判断していた。だが、ベトミンは多種多様な火砲を装備しており、ディエンビエンフー基地一帯を射程に納める事が可能だったのだ。供与された武器の中には、接収した大日本帝国陸軍の山砲も含まれており、活用されたと言われる。
3月30日、激しい砲撃に続き、ベトミンの総攻撃が開始された。フランス軍防御陣地からの猛烈な射撃がこれを迎え撃つが、それでもベトミンは次から次へと仲間の亡骸を踏み越えて突撃を行い、遂にフランス軍の外郭防御陣地のひとつを陥落させた。フランス軍が期待した航空機による支援は、雨と霧に邪魔されて有効な攻撃とはならなかった。
決着
※ディエンビエンフーで勝利し旗を振るベトナム兵
2ヶ月近くも続いた戦闘でフランス軍の防御陣地は次々と攻略され、フランス兵の半数が死傷する状態となった。
周囲を山に囲まれた盆地のなかに陣地を広く点在させたことも不利な状況を作り出していた。稜線内に関しては火制できると期待されたが、稜線外からの攻撃は想定しておらず、各陣地(特に最南方のイザベル(Isabelle)陣地)は分断が容易な位置に築かれている。
他の地域を担当する外人部隊が志願してディエンビエンフーに向かうこともあった。彼らは歩兵であり、正規の空挺降下訓練は受けておらず、しかも夜間という悪条件だったが、仲間を見捨てることができずに死地へと降下していった。しかし、戦局は覆ることはなく、5月1日には500m四方の範囲までフランス軍は追い詰められる。
ある兵士の証言によると、司令官ド・カストリ大佐の陣地から白旗が掲げられたがすぐに下ろされたという。大佐が諦めて早まったのか、単なるミスなのかは不明である。しかし、その数時間後には間違いなく白旗を挙げてフランス軍は降伏した。
最後に
外人部隊の歴史において、ディエンビエンフーは1863年のメキシコのカマロンの戦いに並ぶ激戦であった。
カマロンの戦いもメキシコ軍を相手に全滅を覚悟しての激戦で、メキシコ軍の司令官であったミラン大佐に「こいつらは人間ではない、鬼だ」と賞賛されたほどだ。そのため、外人部隊では戦闘が行われた4月30日を「カマロン記念日」としている。
その伝統と勇猛さは、どれだけ時代が変わろうとも外人部隊の中に生きているのである。
(外人部隊については「フランス外人部隊について調べてみた」を参照)
旧日本軍兵士はベトミン側ですよ。
あのジョークが出てきたのはバブル後です。
デイリー新潮の記事によると
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/08151130/?all=1
当時の写真や回顧録を交えて、ベトナム軍に日本兵が協力したことが書かれています。