「こだまでしょうか」金子みすゞ
「遊ぼう」っていうと 「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと「遊ばない」っていう。
そうして、あとでさみしくなって 「ごめんね」っていうと「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、いいえ・・誰でも。。
これはCMで、誰でも知っている詩である。
26歳という若さで亡くなった「金子みすず」本名「金子テル」の作品である。
金子テルは明治36年4月11日山口県長門市仙崎に生まれた。
大津郡立大津高等女学校を卒業、大正末期にすぐれた作品を発表し、西條八十に「若き童謡詩人の巨星」とまで称賛されつつも、二十六歳の若さで自ら命を絶つ。
死後五十余年の歳月を経て、童謡詩人・矢崎節夫の努力により散逸された作品の全貌が明らかになり、2003年生誕100年再び「金子みすず(テル)」は天才詩人として注目を集めることとなる・・
では「金子みすず(テル)」とは、一体どんな人生を歩んできたのか?どんな作品をのこしたのか?調べてみた。
別れ
金子みすず(本名:金子テル)の母ミチは、とても働き者で、優しい人である。本屋のお店はいつも子供達の笑い声が絶えず、子供達が立ち読みしても怒らず「本を読む子は偉いね」と褒める方だったのである。テルは小さい頃から、そんな優しい母に育てられ本が大好きだった。親戚の家に行くときも、何冊もの本を抱えていく女の子だったのである。
テルの母の妹フジは下関の上山文英堂書店店主:上山松蔵の元へ嫁いだが、子宝に恵まれずにいた。松蔵は大阪から山口県に来て、一代で大書店を築いた働き者で、雇人はもとより、近所の商家・商業界からも一目置かれていた。
そのころ満州事変が勃発しそれに目を付けた松蔵は、遼東半島の営口・三軒・旅順・大連と支店を持った。松蔵は、遼東半島の営口に日本人向けの書店を出すとこれが大当たりし、そこでテルの父「金子庄之助」を雇い支店長にしたのである。しかし父:庄之助は、満州に渡り1年あまりで亡くなるのであった。テル2歳の時である。
『口真似』~父さんのない子の唄~
「お父ちゃん、おしえてよう」あの子は甘えて言っていた。
別れてもどるうらみちで
「お父ちゃん」そっと口真似してみたら
なんだか 誰かに はずかしい。
生垣の白い木槿が 笑うよう。(全集1/196ページ)
お父さんのいない淋しさ、テルは父の記憶を引き出しにそっとしまって、遠く霞の様におぼろであったであろう、父の話を聞かせたのは、祖母か母だったのか。テルは「父への想い」を作品に残している。テルにとって初めての「別れ」だった。
そんな一家の大黒柱を失くした「金子家」の為に松蔵は、山口県仙崎にたった一軒からなる書店「金子文英堂」を開いてやるのである。テルの家族は、祖母ウメ・母ミチ・兄の堅助・テル(みすず)・弟の正祐の5人家族だった。
そこで跡継ぎに恵まれなかった松蔵は、ミチの子供「(テルの弟)正祐」を1歳の時、養子に迎え入れたのだった。テル4歳二度目の「別れ」である。
大正五年四月、金子テルは大津郡立大津高等女学校に入学する。女学校へ通うテルは、ほとんど一人でいる事が多かったという。いとこの前田リンが「みんなと一緒にいきゃええそに」というと、テルは「何かと嫌な話を聞かんにゃならんしな、一人の方が安気でいい」・・テルは人の悪口や、嫌がるような事を一度も口にしなかった。それはテルを育てた祖母や母の影響が大きいのだと思う。そんなテルにも大親友がいた、田邉豊乃代(たなべほほよ)である。しかし二年に進級した14歳のとき、豊乃代さんは退学してしまう。
しかし同じ感性を持つ豊乃代は、テルに感化され少し遅れてテル(みすず)と同じ文学の道を歩み「田邉みえみ」とペンネームで『赤い鳥』(大正13年7月号)に詩を投稿、
そして掲載され結婚、しかし身ごもったまま22歳の若さで病死。テルは大きなショックを受け、それを詩にしている。テル親友との「別れ」であった。
「失くなったもの」
夏の渚でなくなった、おもちゃの舟は・・あの舟は
おもちゃの島へかえったの。月の光の降る中を・・なんきん玉の渚まで。
いつか、指切りしたけれど、あれきり遭わぬ豊ちゃんは・・
空のお国へかえったの。蓮華のはなの降る中を・・天童たちに守られて。
そして昨夜のトランプの、おひげの怖い王様は・・
トランプのお国へ帰ったの。ちらちら雪の降る中を・・奥の兵士に守られて。
失くなったものは、みんな・みんな 元のお家へ帰るのよ・・
大津郡立大津高等女学校の四年生テル(16歳)の時、大正八年。母ミチが下関の上山文英堂書店・店主:上山松蔵と再婚することになる。母の2歳年下の妹で松蔵の妻フジが、養子縁組した「正祐」を残してスペイン風邪で逝ってしまったからだ。
母との悲しい別れであった。そして「正祐」にはテルと「姉弟」である事はふせられ、二人は「いとこだ」と言い聞かせられていたのである。
テルは、仙崎に残り祖母ウメと兄堅助の三人で金子家で女学校を卒業するのである。そして兄を手伝って本屋の店番をしていたが、テル19歳の時に兄の堅助は、テルと同級生の大島チウサと結婚する事になった。それをきっかけに、テルは母のいる下関「上山文永堂書店」へいく事になるのである。
実の母を「奥様」、弟の事は「坊ちゃん」、松蔵の事を「大将」と呼ぶ事を条件に。
金子みすずの誕生
大正12年、テル20歳の時の事だった。「はい。心得ました」と三つ指ついて頭を深々と下げたテルだった。
テルは、松蔵に感謝していた。大将は、自分が姉だと正祐が勘づく事を危ぶみながらも、家に置いてくれるのだ。チウサが兄の嫁になり居場所がなくなり、といって他に行くあてもない自分を住まわせてくれるし、本屋で働ける事がなによりもありがたかったのである。
「上山文永堂書店」は下関の中心部にあり、小学校の教科書を一手に引き受け、洋書・雑誌・文房具なども扱い、支店を4つも持つ(満州でも4つ)大手の書店だったのある。
テルはその一つの支店を一人で任される事になった。弟である「正祐」が姉テルに恋心を抱き始め、東京に旅立った18歳の年でもあった。
テルは、次々に詩の言葉を思いついて帳面が手放せない状態になっていく、次から次へと新たな詩の着想が沸き、ノートにつづるのも間に合わない。真夜中も眠りながら、詩の続きを考える、そしてテルは『金子みすず』というペンネームで「婦人倶楽部」、西條八十が選を務める「童話」、野口雨情の「金の星」など投稿を続けた。
テルは根気強く投稿を続け、四つの雑誌に童謡と詩が五作も載ったのだった。『金子みすず』の名前が載ったのである。『金子みすず』の誕生の瞬間でもあった。中でも「婦人画報」に載った「おとむらい」は母ミチの胸を絞めつけた。
テルは下関に移る前に、仙崎の家で古い手紙・女学校のノート・友からの手紙を全て燃やしたことだろう。家では兄夫婦が住まい、テルの持ち物を残す場所はない・下関のここも居候に近く、荷物は置けない。母としていたたまれなかった。
おとむらい 『金子 みすず』
ふみがら(古い手紙)の おとむらい・・鐘もならない、お伴もいない
ほんに、さみしいおとむらい。
うす桃色のなつかしさ、憎い
大きな 状ぶくろ・・
涙ににじんだインクのあとも・・封じこめた花びらも・・
めらめらと、わけもなく燃える 焔が文字になりもせで、
過ぎた日の想い出は ゆるやかに 今・・夕暮れの空へ立ち上る。
あの西條八十が賛辞を寄せていた『英国のクリスティ・ロゼッティ女史同様だ』と。
テルは投稿を続けた。四誌とも一等ではない。昭和四年までに512篇の童話を書く。
そのうち約90篇が雑誌に載り、昭和五年に命を絶つ・・
だがテルがもし「金子みすず」にならなかったら、死ぬ事はなかったかもしれない。
1
2
この記事へのコメントはありません。