陽明学の大家
安岡正篤(やすおかまさひろ)は、太平洋戦争以前から政界・財界にも多くの信奉者を集め、戦後も歴代の総理大臣のアドバイザー的な役割を果たしたとされている学者です。
安岡は1922年(大正11年)に、自身の東京帝国大学卒業時に著した「王陽明研究」で「陽明学」の碩学として注目を浴びました。
陽明学とは、中国明王朝の時代に先の王陽明が興した儒教のひとつであり、孟子の性善説に連なるものとされている学問です。
こうした学者としての安岡が、如何にして歴代首相にまで影響を与えたと言われているのか調べてみました。
東洋思想の啓蒙
安岡は明治31年(1898年)に大阪に生まれました。幼少の頃より中国の古典に親しむなど才を発揮し1919年(大正8年)に東京帝国大学法学部政治学科に入学しました。
この卒業時に「王陽明研究」を著し脚光を浴びると、卒業後は一旦文部省に入省するも約半年で辞しています。
その後、請われて皇居内に設立されていた社会教育研究所に加わり、同研究所の学監兼教授を務めました。
1923年(大正12年)年に「東洋思想研究所」を設立した安岡は、この当時の大正デモクラシーとは対極となる伝統的日本主義を提唱しました。安岡はその後も著作を通じて、一部の華族・軍人の支持を得ました。
1927年(昭和2年)に「金鶏学院」を設立した安岡は、儒学を基本に置いた東洋思想を説いて、西洋至上主義ではない人物の養成を目指しました。
更に1931年(昭和6年)には三井・住友等の財閥の支援を受け、埼玉県に「日本農士学校」を設立、農村の新しい指導者の育成を進めました。
戦前・戦中の 安岡正篤
安岡は、1932年(昭和7年)に「国維会」を結成して若手官僚達への教科も行いました。
この団体から廣田弘毅らが輩出され、実際の政権に入閣するなど、政治への影響力を強めました。これを危惧する向きもあり、会は2年ほどで解散されることになりました。
その後も安岡は、「金鶏学院」を通じた啓蒙活動を続け、巷説では二・二六事件の発生に大きな影響を与えたとも伝えられています。更に太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)には、大東亜省の顧問に就任し外交政策などに関与しました。
安岡は1945年(昭和20年)8月15日に発せられた「終戦の詔勅」の原文の修正に関わるなど、政権内でもその碩学を高く評価されていました。
しかし戦後1946年(昭和21年)に「金鶏学院」や「日本農士学校」などがGHQによる解散命令を受けると、安岡自身も公職追放の処分を受けました。
歴代総理のと関係
安岡は、その後1950年(昭和25年)に追放解除となると自民党の政治家の指南役として、東洋宰相学、帝王学を説いてその「精神面」における指導敵役割を担い、政権の裏の御意見番とも言うべき存在となっていきました。
こうして、安岡を師としたことで知られている人物は吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳など戦後の歴代首相経験者だけでも多数に上り、戦後政治に与えた影響の大きさを伝えています。
最期の意外な逸話
安岡は1983年(昭和58年)12月に享年85で世を去りましたが、後の1990年(平成2年)に竹下登が「平成」の元号の発案者と示唆したことが伝えられています。
このことから生前の安岡が「平成」の元号を考案したとも言われているのですが、当時の内閣の担当部署からはこれを否定する声も出ており、安岡のネームバリューが生み出した伝説のひとつと考えられています。
因みに安岡は亡くなる直前に、一時占い師として多数のTVに多数出演していた細木数子との再婚の問題が浮上していました。
この問題は、細木が安岡との間で取り交わしたと主張した「結婚誓約書」を元にして、婚姻届を提出、一旦役所が受理したため発生した騒ぎで、安岡の遺族が東京地裁に「婚姻の無効」を求めたものでした。
翌月に安岡本人が他界し、結果、婚姻はなかったこととし、細木が戸籍を抜く形で決着しました。既に85歳で認知症とも言われた安岡の意外すぎる最期の逸話でした。
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