夏目漱石といえば、日本の近代文学を代表する巨匠のひとり。
旧・千円札の肖像画として馴染み深い方も多いでしょう。
多くの有名な作品を残した漱石ですが、実は超がつくほどの「甘いもの好き」だったことでも知られています。
今回の記事では死を覚悟するほどの病状の中でも、甘い物への執着が止められなかった漱石のびっくりエピソードを紹介します。
病気のデパート!?人生の大半を病気と共に過ごした漱石
夏目漱石は、人生で多くの病に苦しめられました。
痘瘡(とうそう)、虫垂炎、トラホーム(伝染性慢性結膜炎)、結核、胃潰瘍、糖尿病、痔、リウマチ…
もはや「病気のデパート」と言えそうなほど多くの病気を抱えながら、数々の名作を世に打ち出したのでした。
また非常に神経質だったため、精神的に良い日ダメな日の落差が激しかったことでも有名です。
漱石の精神状態が悪い時は、家族全員が抜き足差し足状態で、子供たちはなぜ叱られているのか分からない、といったこともよくあったそうです。
療養のために伊豆の修善寺へ
そんな漱石は、明治43年(1910年)にかねてから悩んでいた神経衰弱と胃痛の療養を本格的に開始するため、伊豆にある修善寺温泉菊谷旅館を訪れました。
そして8月17日、漱石は大量の吐血をしてしまいます。
漱石があまりにも重体だったため、急遽呼ばれた地元の医者は驚き「東京から主治医を呼ぶべきです!」と主張しました。
この医者の適切な判断と処置が無かったら、漱石の命はなかっただろうと言われています。
そして翌日18日の夜、東京から漱石の主治医が駆け付け、漱石の妻・鏡子夫人も到着。
しかし、夜中に漱石は再度吐血。
一時は「このままでは命が危ないのでは…」とその場にいる皆に緊張感が走りましたが、周囲の献身的な看病のおかげで一命を取り留めたのでした。
吐血した直後におねだりしたアイスクリーム
徐々に回復に向かい食欲が少しずつ出てきた漱石は、鏡子夫人に驚くようなおねだりをします。
「アイスクリームが食べたい!!」
もちろん、吐血した直後にアイスクリームのような胃腸を冷やす食べ物が良いはずはありません。
そして当時、修善寺にアイスクリームを売っている店などありません。
「それなら仕方ない…」とあきらめるかと思いきや、甘いものに目が無い漱石はとんでもない行動力を発揮。
なんと、東京からアイスクリームを作る機械を取り寄せたのです。
もちろん漱石は「病状を悪化させる可能性もあるためアイスクリームは控えるように」と、医者から言われていました。
当時のアイスクリームは牛乳、卵、砂糖で作るシンプルなもので、菊屋旅館の主人は漱石のためにわざわざ近くの農家まで、新鮮な卵と牛乳を求めに行ったと言われています。
そんなことがありつつも漱石は徐々に回復していき、周囲の人たちも「やれやれ…」とホッとしたのもつかの間。
8月24日、再び容態が悪化し昏睡状態へ陥ります。
このときなんと800gもの吐血をしたと言われ、このときの体験は「修善寺の大患」と呼ばれています。
その後も修善寺での療養は続き、10月になってようやく病気は回復へと向かったのでした。
この出来事は、その後の漱石の人生や創作活動に大きな影響を与えたとされています。
初めてアイスクリームが日本にやってきたのは幕末
ちなみに、日本人が初めてアイスクリームを食べたのは幕末だったといわれています。
横浜港が開港した翌年の1860年のこと、遣米使節(江戸幕府が日米修好通商条約の締結のためにアメリカに派遣した使節団)の随行艦・咸臨丸の一行が、船中の晩餐で食べたのが始まりだったそうです。
咸臨丸にはアメリカ海軍ブルック大尉ら数十名のアメリカ人の他に、勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎など、幕末から明治時代に活躍する人々も乗っていました。
咸臨丸の艦長だった勝海舟や福沢諭吉たち一行が、日本人で最初期にアイスクリームを食べた人たちということになります。
その後、明治時代に入ると横浜でアイスクリームが販売されるようになり、鹿鳴館でも外国人の賓客をもてなすために欠かせないデザートとなりました。
漱石の「こころ」や「虞美人草」などの作品にはたびたびアイスクリームが登場しますが、漱石にとっても日常に欠かせない魅惑のデザートだったのでしょう。
おわりに
漱石はアイスクリームだけでなく、朝食にはバターと砂糖をたっぷり塗りのトースト、おやつには羊羹やシュークリームを食べていたようで、相当の甘党だったことが分かります。
とはいえ、これらの食生活が病気を引き起こす原因になったとも考えられているので、甘いものはほどほどにするのが一番ですね。
日本文学のススメ 著:関根尚
信長の朝ごはん龍馬のお弁当 編集:俎倶楽部
胃弱・癇癪・夏目漱石 持病で読み解く文士の生涯 著:山崎光夫
この記事へのコメントはありません。