17〜18世紀の間、中国大陸を支配した大清帝国。
この国は元々、女真族のヌルハチによって建てられた王朝なのだが、この王朝が中華統一を果たすのは今回紹介する康熙帝(こうきてい)の時代のことであった。
今回はそんな唐の太宗と並び称される名君、康熙帝について見ていこうと思う。
即位まで
康熙帝は1661年に清の三代皇帝である順治帝の三男として生まれた。
しかし、康熙帝は三男だったことや父が順治帝自身が彼にあまり関心がなかったことにより、祖母によって育てられたのである。しかし、彼がこのような不遇とも言えるような生活を送ったことが、かえって宮中の生活に浸ることがなく厳格に育ったといういい影響も与えたのである。
このようにして厳格に育った康熙帝は天然痘にかかってしまった順治帝から皇太子に任命。直後に崩御すると康熙帝は8歳にして皇帝に即位した。
三藩の乱と台湾討伐
こうして皇帝となった康熙帝だが、この当時の清は中国に進出したばかりもいう事もあり、非常に不安定な政情だった。
特に、明の滅亡のきっかけとなった明の元家臣である呉三桂(ごさんけい)は江南の地帯を藩王として与えられ、その一帯の自治や税の徴収の権限を持っていた。このことは清にとったら脅威のほかなく、康熙帝は家臣の助言を受けてこの呉三桂が治めていた三藩を廃止することを決定。
このことに反抗した呉三桂は清から離反。明の遺臣であり、台湾に亡命していた鄭成功(ていせいこう)と連携して三藩の乱を引き起こした。この反乱に清は動揺。一時期、長江より南は呉三桂が建てた周王朝の手に落ち、さらに鄭成功の沿岸攻撃によって清は滅亡の危機に瀕する事態を引き起こしてしまった。
しかし、康熙帝は家臣の撤退の助言を聞かず、呉三桂自身が明を裏切ったという汚点があることを根拠にいつか劣勢になると粘り強く耐え続け、そして清が漢人を登用し始めると漢人の支持を受け始め形勢は逆転。
1681年に周王朝を滅ぼし、また、鄭成功が治めていた台湾にも攻め入って1683年に鎮圧。清に抵抗する勢力は完全に消滅し、ここにヌルハチ以降清の悲願であった中華統一を成し遂げたのであった
文化振興と清の最盛期の到来
中華を統一し、さらにロシアとネルチンスク条約を結び北の脅威をなくした康熙帝は国内政策に取り組み始める。
まず、康熙帝はこれまで明の時代に散財しまくっていた宮廷費用をできる限りカット。明の時代には半日の費用を一年間の費用にするレベルの引き締めを行い、その分民衆に対して減税を行った。さらに暴れ川としても有名であった黄河の治水事業も行い、水運制度を整えて物流を整えて経済の基盤を確立した。
また、字書の最高傑作である康熙字典(こうきじてん)を編纂。
また、イエズス会の宣教師から西洋文化の吸収を行い、西洋技術による地図も作られたりした。
康熙帝はその後、チベットやジュンガルに出征しこれを下して清の領土をチベットや内モンゴルまで拡大。清が強大になるのを見届けて康熙帝は1722年に亡くなった。彼が即位していた期間は61年。この年数は歴代中華王朝の皇帝の中でもトップであった。
終わりに
康熙帝が行った様々な文化の吸収は後の雍正帝や乾隆帝にも引き継がれていき、文字の獄が起こりながらも文化はどんどん振興していった。
さらに乾隆帝の頃には領土を新疆まで拡大し清の最盛期を迎え西洋諸国から『眠れる獅子』と恐れられるようになった。清がこのような東洋の大帝国となったのはやはり康熙帝の功績があったことが最大の理由であろう。
その証拠の一つに彼の廟号は聖祖といわれている。皇帝の中で廟号に聖という字が使われたのは康熙帝と契丹の最盛期を導いた聖宗の2人のみであり、まさしく中国の名君としてふさわしい廟号でもあった。
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