民主化運動の指導者
この民主化運動の指導者は漢民族出身の大学生である、王、紫玲、ウイグル族出身のウーアルカイシなどで、1989年5月18日午前に中国共産党指導者との会見が行われた。
まず党の代表者が「会見の目的はハンストを終わらせる方法を考えることだ」と発言すると、ウーアルカイシは「実質的な話し合いをしたい。議題は我々が決める。」と反論した。
学生側は「学生運動を愛国的なものとすること、学生と指導者の対話を生放送で放送すること」と要求したが、党は「この場で答えることは適当ではないし、2つの条件はハンスト集結と関連つけるべきではない」と返し、会見は物別れに終わった。
ゴルバチョフ訪中
このような状況下で5月15日には、「改革派」として知られ、ソビエト国内の改革を進めていたミハイル・ゴルバチョフ書記長が、冷戦時代の1950年代より続いた中ソ対立の集結を表明するために訪中した。
中国共産党は、鄧小平ら共産党首脳部とゴルバチョフの会談を通じて、中ソ関係の正常化を確認することで「中ソの雪解け」を世界に向けて発信しようとして綿密に受け入れ準備を進めていたが、天安門広場をはじめとする北京市内の要所要所は民主化を求めるデモ隊で溢れており、当局による交通規制を行うことが不可能な状況になっていた。
このためゴルバチョフ一行の市内の移動にも支障をきたし、天安門広場で開催予定だった式典もキャンセルせざるを得なくなった。
外国メディアの報道の多くは、自国の民主化を進めるゴルバチョフの訪中と中国における一連の民主化運動を絡めたものとなった。
また、デモ隊がゴルバチョフを「改革派の一員」「民主主義の大使」として歓迎する一幕が報道されるなど、この訪中を受けて両国間の関係が正常化されることとなったが、結果的には中国共産党のメンツは丸潰れとなった。
戒厳命令
この頃の中国共産党指導部は、保守派の長老によって総書記の座に選ばれていたが、民主化を求める学生らに同情的な態度をとった改革派の趙紫陽や胡啓立書記もいた。
そんな中、党長老派で事実上の最高権力者である鄧小平が、やや強引に戒厳例の布告を決定した。
その布告は以下のようなものだった。
「学生デモが未だ沈静化しない理由は党内にある。今ここで後退する姿勢を示せば事態は急激に悪化し統制は完全に失われる。よって北京市内に軍を展開し、戒厳令を敷くこととする。」
戒厳令の布告を受け、趙紫陽はハンガーストライキを続ける学生を見舞う中で涙を見せ、学生達の愛国精神を褒め称え「諸君はまだ若いのだから命を粗末にしてはいけない。」とハンストの中止を促したが、学生達には真意が十分に伝わらなかった。
しかし彼の演説は学生達に歓迎され、拍手は止まなかった。
ところが5月20日、鄧小平は自宅で非公開会合を開き、趙紫陽の解任を事実上決定した。
その後「動乱を支持し党を分裂させた」として、趙紫陽は党内外の全役職を解任され自宅軟禁下におかれ、これ以降政治の表舞台から姿を消したのである。
保守派によって戒厳令体制の強化が行われ、23日には戒厳命令布告に抗議するために北京市内で100万人規模のデモが行われるなど、事態は沈静化しないばかりか益々拡大していった。
武力介入が避けられない状況となってきたことで知識人らは学生達に撤収を促したものの、地方から集結した強硬派が多数を占めた学生側の話し合いでは反対票が9割を超えたため、撤収は不可能となった。
5月30日には天安門広場の中心にNYの「自由の女神」を模した「民主の女神」像が北京芸術学院の学生によって作られ、これは民主活動のシンボルとして世界中のメディアで取り上げられた。
その頃、香港や台湾、アメリカ合衆国など国外の華僑による民主化推進派支援の活動が盛んになっていた。
そしてついに「武力弾圧」へと、事態は最悪の展開を迎えるのである。
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