中国清朝
清朝は、1644年から1912年まで中国全土とモンゴルを支配した最後の統一王国である。
清朝といえば華々しい皇帝たちの生活や、現在は「故宮」と呼ばれる豪華な王宮を思い浮かべる人も多いのではないだろうか。
華々しい反面、皇女たちの皇帝をめぐる争いは日本の江戸時代の大奥のようであり、中国のドラマでも特に好まれて演じられている。
清朝の宮廷の物語は、様々な世代から支持される題材の一つだ。
しかし宮廷の中は外の世界とは全く違う。多くの若者が夢を抱いて宮廷入りしたが、成功者になれるかどうかは命懸けである。
今回は、清朝で行われていたなんとも残酷な刑罰について解説する。
宮女と宦官
宮女とは宮廷に使える女性たちのことで、宦官とは去勢されて宮廷で使える男性のことだ。
彼らは一見華やかなようだが、罪を犯したり皇帝の怒りを買った場合、宮廷内で処罰を受けた。
ところがその処罰は一般のそれとは異なっており「流血」を嫌った。血が流れ宮廷を汚すことのないようにとの計らいであった。
刀は使わず、処刑後の死体も流血の跡がないようにとされていた。
清朝の時代には様々な刑罰が存在したが、今回は一風変わった站籠(たんろう)について紹介したい。
站籠(たんろう)
站籠(たんろう)の刑具は特別に作った木の檻である。
檻の上には頭を出せるだけの穴が空いている。頭を出すことはできるが、頭を中に入れたりもたれたりすることはできない。檻の下にはその刑罰を受ける者の身長や体重に合わせて足の下にレンガが敷かれ、ギリギリ立てる空間にセッティングされる。
その檻に入れられると足を少し曲げることはできるが、座ったりもたれたりすることはできず、立ちっぱなしである。
つまり、身動きが取れない状態でずっと立たされる。
最終的には足の力がなくなり、首の力で体を支えることとなり、立ったまま首を吊った状態で窒息して死んでいくという。
ある記録によると3日が限界だという。ほとんどの者は3日ともたない。頑張って長く持ちこたえたとしても足元のレンガを一つづつ抜かれ、死を早められた。
檻の周りはカラスの大群が取り巻き、罪人が死ぬのを待っていたという。
すぐに死なせるのではなく、じわじわと苦しめて少しずつ体力を奪い、限界ギリギリの状態で命を奪う。窒息して死ぬか餓死するかのどちらかだったという。
この刑罰で命が尽きた罪人には、拷問の跡も傷も残らない。
そして彼らは公開処刑だった。大きな通りにいくつもの檻が置かれて罪人がその檻に入れられる。周りには多くの傍観者がおり、その屈辱にも耐えなければならず精神的にも非常に厳しい刑罰だった。
しかも刑の執行期限が決められており、期限より先に死んでも家族は遺体を回収して弔うこともできなかった。期限が来てようやく運び出すことができるのだ。
早くに息絶えた場合、冬ならまだ良いが夏は1日でも死体の腐敗が進んだであろう。だが引き取ることはできないので布をかけて隠すことしかできなかった。
清朝だけでなく、共産党政府が治めた近代に及ぶまでこの刑具は使用されており、鉄で作られるなど改良されていたという。
参考文献 : 郷民 清代超殘忍酷刑 處罰宮女「不見血」
女性の執念…恐ろしいですね!
特に悪事にかけては底しれない中国人のする事は目を覆う限りです。
今もその血液が脈々と流れているのは、現在の中国人を見ても判ります。
生まれつきの血統も相俟って、その残虐さは朝鮮民族と漢民族の血統ですね…😱
他にもたくさんの事がりますが…
日本の国に生まれ育って良かったです。