中国史

【中国三大悪女】則天武后はなぜ悪女と呼ばれたのか? 「産んだばかりの子を自ら殺す」

【中国三大悪女】則天武后はなぜ悪女と呼ばれたのか?

則天武后(そくてんぶこう)とは、呂后、西太后とならんで中国の三大悪女と呼ばれている、中国唯一の女帝である。

7世紀から8世紀ごろに権威をふるい、中国大陸4000年の歴史の中で、唯一の女性皇帝として名をはせた。

中国ではそのことを意識し、『武則天』と呼ばれているが、日本では則天武后という呼び名が一般的である。

残虐な手段を使って国の当事者へと成り上がった則天武后とは、どのような人物だったのであろうか?

則天武后はなぜ悪女なのか?

【中国三大悪女】則天武后はなぜ悪女と呼ばれたのか?

※(女優・范冰冰:ファンビンビンが演じた則天武后) 出典

“悪女”という言葉について回るイメージは、「男性をたぶらかす、誘惑して手玉に取る」というものが強いかもしれない。実際はどうだったのだろうか。

則天武后は元々上流階級の家に生まれた。

幼い頃から英才教育を受け、14歳で皇帝(太宗)の後宮に入るが、その時には後宮の女性の中でも最下級の才人という身分であった。
その為、皇帝の寵愛を受けることはなかったが、皇帝の息子である皇太子(高宗)と通じていた。

皇帝が亡くなると皇太子が帝位に就くが、則天武后は名義上、前皇帝の父の側室であったため、儒教の教えでは近親相姦にあたるとして2人の関係は秘密にされていた。

しかし則天武后は妊娠。それを知った皇帝(皇太子)は、すでに王氏という正室がいるにも関わらず、則天武后を自身の側室にしてしまった。
則天武后は女児を生み、王氏を失脚させることを目論む。

なんと、生んだばかりの子どもを自ら殺し、それを王氏の仕業に見せかけたのだ。
王氏には子どもがおらず、則天武后を妬んだ上での犯行だと思わせたのである。

さらに、皇帝の寝台の下に呪いの人形を隠し、王氏が妖術を使って皇帝を殺そうとしているという噂を流した。
ついに捕らえられた王氏を退け、則天武后は31歳で正室の座に就いた。
彼女は政敵には容赦なく、その後も対立する側室たちを残虐な方法で死にいたらしめたのである。

夫である皇帝の死後、則天武后の息子が新たな皇帝になったが、この息子が非常に無能であった。
夫の生前から裏で政権を動かしていた則天武后であったが、息子を皇帝の座から引きずり下ろし、自ら政権を執ることを決めたのである。

自分が政権を持つため、自ら生んだ子を手にかけたり、廃位させたりといった行動が悪女と呼ばれるゆえんであるが、実は周りの男性たちが頼りなく、則天武后が政治的手腕に優れていたと言えよう。

皇帝としての顔

則天武后が皇帝の座に就いたのは、彼女が60歳の時である。

彼女の代表的な政治改革としては、人材登用の幅を広げたというものが挙げられる。
このことによって、生まれた身分が低い者でも、優秀であれば高い位へと出世ができるようになったのである。

則天武后は、国号を唐からへと改名し(古代中国の周王朝に憧れていたからだとされる)、酷吏(こくり)という制度を採用した。
この酷吏とは、逮捕された罪人に拷問を加え、時には殺してしまうという恐ろしい制度であった。

加えて則天武后は臣下や国民に密告制度を奨励し、彼女の政権批判をした者を片っ端から逮捕させた。

王族も民衆たちも、いつ自分たちが密告され、酷史たちに逮捕されるかと怯えながら暮らしていたという。
そして則天武后はこの頃、残虐な拷問方法を格段に進歩させていったのである。

彼女は、臣下や国民を“恐怖”で支配したのだ。

則天武后と日本のかかわり

【中国三大悪女】則天武后はなぜ悪女と呼ばれたのか?

※遣唐使の航路

則天武后と日本とのかかわりは、意外にも深く、彼女の皇后時代から始まっている。

663年、白村江の戦いにおいて、唐は百済連合軍を打ち破り、百済を滅亡させた。
中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を滅亡させ、新たな政権を生み出していた頃である。

皇帝になってからは、「初めて日本を知った中国皇帝」であると言われている。
これはどういうことなのかと言うと、それまで、日本の遣唐使は中国に渡していた外国文書に、自らの国のことを【倭】と記していた。
日本という国名は、日本の国内でのみ使われていたものだった。

701年、その年の遣唐使が初めて、文書に【日本】という国名を記したのである。
則天武后はそれを読み、【倭】を【日本】と改めることを承諾したという。

そのことによって、日本という国名がアジアの中で受け入れられることになったのである。

最後に

則天武后は幼少期、旅の道士(道教の僧侶)に「この娘は天に昇るだろう」と予言をされた。
その予言の通り、彼女は皇帝となり、巨大な中国を支配することになった。

約15年間皇帝の座に座り続けた則天武后であったが、その晩年は快楽のみを求めるようになり、臣下の手で幽閉されたのちに病死したという。

彼女が活躍した唐の時代は、比較的、女性が表舞台に立つ自由があった時代だと言われている。
その後は、足が小さいことが美人の条件として、女性の足の成長をとめる纏足という習俗が始まるなど、女性にとって辛い時代が訪れるのである。

則天武后はその美貌と英知、そして生まれた時代にも助けられ、その才能を開花させたのではないだろうか。

参考文献 : 則天武后

 

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2023年 4月 29日 7:22am

    内容はともかく、中国という国名になったのは1949年です。

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    • アバター
      • 草の実堂編集部
      • 2023年 4月 29日 8:20am

      王朝ごとに民族も違いますからね。わかりやすく中国と書いたのですが、気になる方もいるかもしれないので中国大陸4000年の歴史と直しておきました。

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  2. アバター
    • 倭国筑紫王朝パズーの父
    • 2025年 8月 24日 3:25pm

    「6世紀から7世紀ごろに権威をふるい…」とありますが、生年 武徳7年1月23日(624年2月17日)、没年 神龍元年11月26日(705年12月16日)(81歳没)なので7世紀から8世紀となり100年違ってます。

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      • 草の実堂編集部
      • 2025年 8月 24日 7:57pm

      ご指摘誠にありがとうございます。
      修正させていただきました。

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