三星堆遺跡とは
三星堆遺跡(さんせいたいいせき)と検索をかけると、面白い結果が出てくる。
多くの人が「三星堆遺跡 宇宙人」とか「三星堆遺跡 外星人」といったキーワードで検索しているのである。理由はこの三星堆遺跡から出土した遺跡の多くが、奇妙な姿の像や謎の仮面だったからである。
大きく目が飛び出ているものや、異常に大きな耳や鼻を持つ像たちは、この世のものとは思えない異様な印象を与えている。これまでの中国遺跡から出土した物品のイメージとは一線を画しており、なんとも特異なものばかりだったのだ。
そしてそのルーツも年代も謎に包まれており「三星堆遺跡は宇宙人文化ではないか」と考える人がいてもおかしくはない。
では、三星堆遺跡とは一体どのような遺跡なのだろうか?
三星堆遺跡は、中国の四川省広漢市、三星堆の鴨子河付近で発見された文化遺跡である。
今からおよそ3000年から5000年前の古蜀文化の遺跡とされ、新石器時代から春秋時代まで、およそ2000年ほどの期間存在していたと推定されている。
三星堆遺跡は、20世紀最大の偉大な発見として世界を驚かせた。
発掘調査の度に、青銅器や黄金の装飾品など数々の物品が出土しているが、その技術の高さと作りの精巧さに考古学者たちは驚きをみせている。
その素晴らしい出土品の数々については後ほど取り上げることにして、まずは2000年もの間続いた古蜀文化について見てみよう。
古蜀の最初の王は「目が縦」だった?
古蜀(こしょく)とは古代の蜀にあった国である。
蜀は三国志の時代で言えば、劉備元徳が治めた国といえばイメージしやすいかもしれない。そのはるか昔にあった国である。
東晋時代の地誌『華陽国志』にはその歴史が詳しく記されているが、司馬遷の『史記』では、紀元前316年に秦の将軍・司馬錯(しばさく)に滅ぼされたということが記されるのみとなっている。
ここでは古蜀の歴代王について解説しよう。
①第一代蜀王 蚕叢(さんそう)
蚕叢(さんそう)は、古蜀を建国したとされる人物である。
『華陽国志』には、「周王が衰退してから最初に王を名乗った」と記述がある。
彼は養蚕家であったため、後に神話の神「蚕神」と呼ばれるようになった。
そして『華陽国志』には驚くべき記述が残されている。
「蜀先称王、有蜀侯蚕叢其目縦、始称王」
なんとこの王様・蚕叢(さんそう)は「目が縦」だったとういうのだ。
目が縦と言われてもどういった状態なのかは文字だけではイメージしにくい。そして、あまりに異様な記述なのでこれまでは空想の産物とされてきた。
しかし、この蚕叢を模したとされる仮面が三星堆遺跡から発見されたのである。
まるで目がカニのように前に向かって飛び出しており、これが縦目の由来と考えられている。
『華陽国志』は、この異様な状態を「目が縦」と表現したのだろう。
この異様な特徴と記述が合致することから、この仮面は蚕叢を模したとする説が有力となり、さらに古蜀が現実に存在したと考えられるようになった。
まるで宇宙人のような姿であるが、古代の突飛な神話や言い伝えが後世で事実だったと判明する例も多く、蚕叢は本当にこのような目をしていたのかもしれない。
一部の学者はヨウ素不足を指摘しており、その結果として甲状腺機能亢進症が原因で眼球が突出したのではないかと考えている。
②第二代蜀王 柏灌
彼については記録はほとんど残っていない。彼の氏族は古蜀を550年近く治めたとされている。
③第三代蜀王 魚鳧(魚鷹)
三星堆遺跡から出土した鳥をモチーフとしたものは、彼に因んだものとされる。
有名な「三星堆金杖」の主人は、この魚鳧王であったと推測されている。
④杜宇
又の名を「望帝」という。彼の最も大きな功績は民に農業を教えたことである。
古蜀は4期あった
調査の結果、この地域の2000年間は、少なくとも4期に分けられることが明らかになっている。
三星堆遺跡が発見されるまで、ただの神話や言い伝えだったものが現実の歴史となったのだ。
第一期(起歩期)
紀元前2800年から2000年、中原地区(黄河下流域にある平原で中華文化の発祥地)でいう新石器時代。
第二期、第三期(全盛期)
紀元前2000年から1200年 中原地区でいう夏、商時代。
この時代に青銅器の製造が盛んになり、多くの青銅器が出土している。
第四期(衰退期)
紀元前1200年から600年、中原地区でいう商末から春秋早期。
終わりに
1986年に発掘が始まった三星堆遺跡は、宗教の儀式を行う祭壇の調査から始まった。
そして、その出土品は年代別に特徴があることも判明した。
この三星堆遺跡は、今も大規模な発掘調査が行われているが、まだまだ多くの謎が多く残っている。
参考 : 『史記』『華陽国志』三星堆出土的青铜立人像 | 新华网
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