始皇帝の死後、秦はなぜ2代で滅びたのか?李斯が下した「一つの決断」と壮絶な最後

李斯の「ネズミの寓話」

秦の丞相・李斯(りし)は、始皇帝の天下統一に大きく貢献した法家の政治家である。

彼は秦の中央集権体制を確立し、文字や度量衡の統一を主導する一方で、焚書坑儒などの強権的な政策を推し進めた。

李斯の原点は、若き日の経験にあった。

楚の小役人として働いていた彼は、ある時、便所にいるネズミと兵糧庫にいるネズミを目にした。

画像 : ネズミの寓話 イメージ 草の実堂作成

便所のネズミは常に怯え、汚物を漁って生きている。一方で、兵糧庫のネズミは粟を食み、悠々自適に暮らしていたのだ。
この違いを目の当たりにした李斯は、「人の才不才は環境による」と悟る。

つまり「どんなに才能があっても、環境が悪ければその才能は生かされない」ということだ。

李斯はこの信念のもと、儒家の大師・荀子に学び、法家思想を身につける。そして、戦国時代最強の国・秦へと向かい、呂不韋の食客となった後、才能を評価されて秦王政(後の始皇帝)に仕えることとなる。

しかし始皇帝の死後、李斯は悪名高き宦官・趙高(ちょうこう)に言いくるめられ、暗愚な二世皇帝・胡亥を擁立する決断を下すことになる。
本来、始皇帝の遺言では長子・扶蘇が後継者に指名されていたが、趙高と李斯はこれを隠蔽し、偽の詔勅を作成したのだ。

この選択が、秦帝国の急速な崩壊と、自身の無惨な破滅を招くこととなる。

韓非と並び称されるほどの当代随一の才能を持ち、史上初の中国統一に最も貢献した李斯が、なぜ趙高に惑わされ、こんな判断ミスをしてしまったのだろうか。

その知力をもってすれば、趙高の奸計など見抜けなかったはずはなく、いささか不自然にも思える。

今回はその理由について考察したい。

法家の申し子

画像 : 李斯 イメージ 草の実堂作成

李斯は、戦国時代の混乱を終結させた秦帝国の成立において、極めて重要な役割を果たした。

彼の政治思想の根幹には、荀子の教えを受け継いだ法家(ほうか)の理念があった。
古来からの徳による政治ではなく、法治主義を徹底し、国家統制を強化することで安定した支配を実現することが、李斯の目指した政治であった。

秦に仕えた李斯は、まず相邦(宰相)呂不韋の庇護を受けたが、やがて秦王政(後の始皇帝)に直接仕えるようになり、その知略を存分に発揮する。

李斯は外交戦略においても各国の離間を成功させ、秦の天下統一を助けた。

そして、紀元前221年、秦王政が中国全土を統一し、始皇帝を名乗ると、李斯は丞相として、統一国家の制度設計に取り組むことになる。

李斯が手掛けた政策の中で、特に重要なのは以下の三点である。

郡県制の確立
それまでの封建制を廃止し、全国を郡県に分け、皇帝が直接官僚を派遣する中央集権体制を築いた。これにより、かつての六国の王族や貴族勢力を完全に排除し、皇帝の権威を絶対化した。

文字・度量衡の統一
戦国時代には、国ごとに異なる文字が使われていたため、情報の統一が困難であった。

李斯は「小篆」を制定し、公文書に統一したほか、度量衡(長さや重さの単位)も標準化した。これにより、経済活動が円滑になり、秦の支配が強固なものとなった。

法治主義の徹底
「法は万人に適用されるべき」という理念のもと、厳格な法律を制定し、身分に関係なく法の下に統制を敷いた。

これらの政策は、後の中国王朝にも多大な影響を与えた。

しかし、李斯の法家思想には大きな問題も孕まれていた。統一国家の安定のために、思想や言論の自由を徹底的に弾圧したのである。

特に象徴的なのが、「焚書坑儒」として知られる思想弾圧政策である。

画像 : 始皇帝による焚書坑儒 public domain

李斯は、儒家をはじめとする百家の思想を危険視し、過去の書物を焼き払い、思想の統制を行った。

さらに、始皇帝に対する批判を防ぐため、学者数百人を生き埋めにしたとされる。この政策により、秦は思想的な一元化を実現したが、同時に知識人層の反発を生み、後の反乱の温床となっていく。

また、秦の制度は始皇帝という強大な存在のもとでこそ機能したが、その支配が揺らげば、一気に崩壊する危険を孕んでいた。

そして、その崩壊の始まりは、始皇帝の死と共に訪れることになる。

始皇帝の死と沙丘の陰謀

画像 : 始皇帝 public domain

紀元前210年、秦の始皇帝は五度目の巡幸の最中、突然病に倒れた。

このとき、彼に同行していたのは宦官の趙高、丞相の李斯、そして末子の胡亥(こがい)であった。

そして皇帝の病状は悪化し、ついに沙丘(現在の河北省邢台市付近)で崩御してしまったのである。

本来、始皇帝の遺詔では、長男の扶蘇(ふそ)が後継者とされていた。
扶蘇は名将・蒙恬(もうてん)とともに北方の防衛を担っており、儒学に理解を示す穏健な人物として知られていた。

しかし、この遺詔を知る者は、趙高、李斯、胡亥の三名だけであった。
そして趙高はこの状況を利用し、李斯を巻き込み、帝位を胡亥に継がせるという陰謀を企てたのである。

趙高は、扶蘇が即位すれば自らの地位が危うくなると考えていた。

扶蘇の側近である蒙恬や蒙毅(もうき)は、かつて趙高の過去の罪を糾弾したことがあり、扶蘇が即位すれば趙高が排除されるのは明らかだった。このため、趙高は何としても扶蘇の即位を阻止し、自らに従順な胡亥を擁立したかったのである。

一方、李斯もまた、重大な選択を迫られていた。

李斯は当初、趙高の提案に難色を示していた。しかし次第に趙高の説得に押され、胡亥を擁立することに同意してしまうのである。

李斯がこの陰謀に加担した背景には、以下の二つの要因があったと考えられる。

画像 : 趙高 イメージ 草の実堂作成

扶蘇との思想的な違い

扶蘇は儒家思想を重んじており、坑儒(儒者の生き埋め事件)にも異を唱えていた。

実際に扶蘇が匈奴対策の監視役として、蒙恬が守る北方へ飛ばされたのも、坑儒に抗議して始皇帝の怒りを買ったためである。

法家の政策を徹底して推進してきた李斯にとって、彼の即位は法治国家の根幹を揺るがす危険があった。
扶蘇が皇帝になれば、儒家が復権し、李斯が推し進めてきた厳格な法治主義が否定される可能性があった。

個人的な保身

扶蘇は剛直で勇猛な性格であり、将軍・蒙恬を信頼していた。もし扶蘇が皇帝となれば蒙恬が宰相となる可能性は高かった。

趙高は李斯に対して、以下のように脅している。

君侯自料能孰與蒙恬?功高孰與蒙恬?謀遠不失孰與蒙恬?無怨於天下孰與蒙恬?長子舊而信之孰與蒙恬?

意訳 : 「あなたと蒙恬では、どちらが優れた才能を持っていますか?どちらの功績が大きいですか?深く計略を巡らせ、先を見通せるのはどちらでしょう?天下の人々から恨まれていないのは?そして、長子(扶蘇)から最も信頼されているのは、一体どちらでしょうか?」

『史記』李斯列伝 より引用

つまり「才を発揮するための良い環境が失われてしまう」ということであり、冒頭で紹介した「ネズミの寓話」が、皮肉にも判断を誤らせる方向に働いてしまったといえよう。

また、胡亥の擁立自体はそれほど不自然ではなかったという説もある。

扶蘇は正式に立太子されておらず、北方へ派遣されていたうえ、始皇帝は胡亥を明らかに寵愛していた。さらに、死の直前まで後継者を明確に定めていなかったと考えられることから、趙高や李斯に謀慮はあったものの、胡亥の即位は必ずしも不自然なものではなかったとする見方もある。

いずれにせよ趙高と李斯は、始皇帝の死を隠蔽し、偽詔を作成したとされている。

その内容は「扶蘇と蒙恬に自決を命じる」というものであった。これにより、扶蘇は皇帝の意思と信じて自害し、蒙恬は拒否したものの後に捕えられて、やむなく毒を仰って自殺した。

李斯たちは始皇帝の遺体を隠しながら、咸陽への帰還を急いだ。腐敗する遺体の異臭を隠すために、沿道では大量の魚を運ばせた。

こうして彼らは、皇帝の死を秘匿したまま宮廷に戻り、胡亥を二世皇帝として即位させることに成功する。

しかし、この陰謀は李斯にとって、大きな誤算を孕んでいた。

胡亥は想像以上に無能であり、趙高の操り人形となることで、秦帝国の崩壊を加速させる存在だったのである。

李斯の最期

画像 : 秦二世、胡亥。摄于曲江秦二世陵遗址博物馆。 public domain

二世皇帝となった胡亥は趙高に操られ、秦の政治は専制と暴虐に傾いていった。

李斯は次第に趙高の権力が強まることに危機感を覚え、何度も諫言を試みるが、すでに遅かった。

そして趙高は李斯を陥れるために「李斯の子・李由は楚軍と通じていた」と胡亥に密告した。
胡亥はこれを信じ、李斯は投獄される。

李斯は獄中で「七罪」と称する上奏文を送り、自らの功績を訴えて赦免を求めたが、これも趙高によって握り潰された。
結局李斯は激しい拷問に耐えきれず、やむなく罪を認めた。

李斯とその一族は三族皆殺しとなり、紀元前208年、李斯は腰斬刑に処せられた。

処刑の直前、息子と共に刑場へ引かれる中、李斯は「上蔡の野で猟犬を連れ、兎を追いかけた日々が懐かしい」と嘆息したという。

かつて秦帝国の統一に貢献した知略の士は、法家の冷酷な体制の中で最期を迎えたのである。

古来より、徳が高く有能な君主こそ理想とされたが、実際にはそのような治世が何代も続くことは稀であり、戦乱が絶えなかった。しかし、強力な法による統治が確立されれば、君主の資質に関わらず国家を維持できるはずだという法家としての自負も、李斯にはあっただろう。

しかし、法だけでは人心をつなぎとめることはできず、結局、秦はわずか二代で滅びた。

李斯に最も必要だったのは、儒家が重んじる「徳」だったのかもしれない。

参考 : 『史記』李斯列伝、秦始皇本紀、蒙恬列伝 (司馬遷 著)他
文 / 草の実堂編集部

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