三國志

袁紹は、なぜ勢力を拡大できたのか? 【三国志正史を読み解く】

三国志といえば、曹操、劉備、孫権が有名ですが、全く知らない人でも諸葛孔明くらいは聞いたことがあるといった感じでしょう。

またはKOEIのシミュレーションゲームの三国志シリーズや、三國無双などでゲームキャラとして知っているという方、横山光輝の「三国志」や蒼天航路などの漫画で、既に詳しい方も多いと思います。

今回は、袁紹本初(えんしょうほんしょ)についてです。

あまり有名でないかも知れませんが、三国志の前半戦の主役は紛れもなく袁紹でしょう。詳しく紹介していきます。

河北4州を治める圧倒的な袁紹軍

官渡の戦い直前の勢力図 ※自分で作成

三国志初期の群雄割拠していた頃の一番の主役はまぎれもなく袁紹本初(えんしょうほんしょ)です。

横山三国志でも蒼天航路でも、プライドが高い無能のような描かれ方をしていますが、袁紹は今で言う有能なカリスマ若手ベンチャー社長みたいな感じだったと思います。当時の人達も天下の覇者となるのは袁紹だと思っていた人は多かったと思います。

上記の勢力図は官渡の戦い直前の200年のものですが、黄色い部分の河北4州(冀州、幽州、青州、并州)を統一していました。

地図だけみると、荊州の劉表や揚州の孫策、益州の劉璋などが大きく見えますが、当時の中国は曹操や袁紹のいる中原付近や河北が栄えており、南の方は山岳地帯や田舎でただ広いというだけでした。

正史でも曹操のいる中原より袁紹が治める河北の方が経済的に上であり、動員できる兵士の数もはるかに上だったという記述があり、後に曹操が冀州(きしゅう)の戸籍を確認したところ、冀州だけでも30万人の兵士が動員できたそうです。(※後の歴史家、孫盛の評)

袁家は元々名声も高く(袁紹の祖父の祖父の代から4代続いて三公の位)中国全土に袁家に代々お世話になってきた人たちがいました。それに加えて、袁紹本人も堂々とした威厳のある風貌をしており、身分にこだわらず多くの人に謙虚に接していた為、若い頃からたくさんの人たちが袁紹を慕っていました。こうした親しみやすい袁紹の性質は、祖父の祖父である袁安の代から受け継がれてきたようです(※魏書)

あの曹操も若い頃から袁紹と交流がありました。蒼天航路でもその辺は描かれてましたね。

ちゃんと自力で勢力を拡大していった 袁紹

袁紹

※袁紹本初 wikiより

袁紹は確かにボンボンでしたが、最初から広大な勢力を持っていたわけではありません。

最初はただの1都市の長で(濮陽の長)そこで評判を上げ、当時の皇帝(霊帝)の崩御や董卓(とうたく)の横暴など時世が激しく変化する中、臨機応変に立ち回り勢力を拡大していきました。

霊帝が崩御した際は当時の大将軍の何進(かしん)と宦官誅殺計画を進めたり、董卓が都の実権を握っていたときはうまく立ち回り、裏で動きつつも董卓から信頼され、結果的には逃亡しますが、董卓は逃げた袁紹が力を持ち攻めてくることを恐れ、袁紹を「渤海(ぼっかい)の太守」に任命します。

あの董卓が、自分を欺き逃亡した人間に気を使ったわけです。その董卓に袁紹を太守にするようにアドバイスした名士たち「周毖(しゅうひ)、伍瓊(ごけい)」らも、実は裏で袁紹と通じていました。なんというネットワーク。

その後も袁紹は臨機応変に勢力を拡大していきます。

袁紹、なんと戦わずして冀州を得る

袁紹が一気に勢力を拡大した一番のターニングポイントはここだと思います。これは私も正史を読むまでは全然知りませんでした。

当時、冀州(きしゅう)を治めていたのは韓馥(かんぷく)で、袁紹は名声は響いていましたが、物資も兵士も足らずキツイ状況で韓馥からの援助に頼り、まだ一州も支配できていない状況でした。

荀諶(じゅんしん)と逢紀(ほうき)の策

そこで北方の幽州で当時武勇を誇っていた公孫瓚(こうそんさん)へ内密に使者を送り、韓馥を攻めさせるように仕向けたのです。韓馥は非常に臆病な人間で公孫瓚を恐れ大変不安になりました。

そこで袁紹は今度は韓馥に使者(荀諶高幹)らを送り、公孫瓚に滅ぼされないためにも、冀州を自分に丸ごと譲るように仕向けます。

荀諶(じゅんしん)が韓馥(かんぷく)を説き伏せる記述

いま将軍(韓馥)の為に計算すれば、冀州を袁氏に譲渡されるのが最良の策と存します。袁氏が冀州を手に入れれば、公孫瓚も争うことができず、袁氏はきっと将軍に厚く感謝するでしょう。

冀州が親交のある人(袁氏)の手に移ること、それは将軍がすぐれた人物に国を譲ったという名声を得られ、しかもご一身は泰山よりも安泰になることです。※正史より引用

韓馥はこれを聞いて「もっともだ」と思いました。ちなみに荀諶はあの曹操軍の名軍師荀彧(じゅんいく)の兄です。なんという優秀な一族。

冀州にも強い将軍たちがいて、袁紹に国を譲ろうと弱気になっている韓馥をなんとか戦うように説き伏せようとしますが、結局臆病な韓馥は袁紹に冀州を丸ごとゆずってしまいます。袁紹は計略と外交だけで一州を手に入れたのです。

この策を袁紹に進言したのは逢紀であると「英雄記」に記述があります。逢紀が進言し荀諶たちが使者として交渉に向かったのです。逢紀にしろ荀諶にしろ袁紹配下にはかなり優秀な人間が集まっていて、袁紹もその献策をうまく使いこなしていたのです。

白馬義従を誇る公孫瓚も撃破

※画像が三国志のイメージとやや違っていてすみません

その後、袁紹は公孫瓚ともめることになります。そりゃそうですよね。

自分から公孫瓚に冀州を攻めるように言っておいて、いざ動き始めたら自分が冀州をぶんどってしまったわけですから。

しかし当時の公孫瓚は白馬義従(はくばぎじゅう)と呼ばれる強力な騎馬隊を従えていました。騎射ができる選りすぐりの兵士を白馬に乗せた騎兵軍団です。白馬義従がどれだけ恐れられていたかというと、当時の辺境の蛮族たちが「白馬を見たら全力で逃げろ!」と恐れていたほどです。

麴義(きくぎ)の活躍

しかし袁紹配下の麴義(きくぎ)が白馬義従を木っ端微塵に粉砕します。

公孫瓚の軍は中央に歩兵3万。騎兵が左右に5千ずつ。騎兵の中心には精鋭の白馬義従という布陣でした。

対する袁紹軍は先鋒に麴義の歩兵800。左右に弩兵が1000ずつ。後方に袁紹本隊の数万という布陣。

この麴義の800は長らく涼州にいて、羌族(西方の騎馬民族)戦法に熟知している選りすぐりの精鋭たちでした。戦が始まると公孫瓚の自慢の騎兵たちを蹴散らし、公孫瓚の本隊さえも破り公孫瓚は逃走したのでした。

たった800人でめちゃくちゃな強さです。公孫瓚の逃走後、散り散りになった公孫瓚の騎兵たちが、安心して手薄になっていた袁紹軍本隊を本隊とは知らずに襲うということもありましたが、その際も麴義の軍が救ったそうです。

呂布や関羽や張飛などに比べ全然有名ではありませんが、この麴義も非常に勇猛な武人です。武力97くらいはあげたいところです。ちなみに軍師の田豊も公孫瓚討伐に大変功績があったと正史にあります。

そして公孫瓚の軍勢もまるまる併合した袁紹は、さらに勢力を拡大し、河北4州を統一することとなります。

河北統一までは完璧だった袁紹

ここまでは完璧だったといっていいと思います。

しかし董卓事件以降に放浪同然になっていた天子(献帝)を迎えられず、曹操が天子を擁したあたりから徐々に歯車が狂っていきます。

公孫瓚討伐に大活躍をした麴義も、調子にのり勝手なふるまいをしたとの理由で袁紹に殺され、キレッキレの献策をし続けていた、沮授(そじゅ)や田豊(でんほう)も、逢紀や郭図らの讒言(ざんげん)により袁紹から遠ざけられるようになります。

沮授と田豊の優秀さについては、後の時代の歴史家の孫盛が「張良と陳平(前漢高祖の軍師)といえども、このふたりに勝ることがあろうか」と評しているほどで、その後の袁家の展開もことどとく言い当てているのです。

その後袁紹は有名な官渡の戦いで曹操に破れ、その約二年後についに袁紹は病没してしまいます。

そのままじわじわと袁家は滅んでいくわけですが、沮授や田豊、麴義や荀諶、まだ讒言を言っていなかったであろう逢紀や郭図、武に長けた顔良や文醜、審配など、有能な人間が多すぎて、どの意見が正解かわからなくなってしまったことが袁紹の不幸だったのかもしれません。

多くの人からは慕われていましたが、多くの中から人を見抜く目がなかったとも言えますね。

袁紹の部下については、正史を見る限りでは沮授(そじゅ)がピカイチに優秀です。沮授も漫画だとイマイチな描かれ方で、ゲームでも知力が80台くらいの扱いで過小評価な気がしましたので、次回は沮授について詳しく書いてみようと思います。

追記:09/21 沮授について書きました。↓
沮授(そじゅ)は実はキレキレの軍師だった

関連記事:
曹操孟徳の少年期について調べてみた「正史三国志」
「三国志」を記述してきた歴史家たち【正史&演義】
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