三国志序盤最大の「悪役」
様々な人物が登場する三国志だが、その中でもヒール(悪役)として一際強烈な存在感を放つのが董卓(とうたく)である。
後漢末期の189年、権力争いの混乱に乗じて帝を手に入れると、呂布と王允によって暗殺されるまでの僅か3年の間に悪行三昧の暴政を行い、現代までその悪名を轟かせている。
やりたい放題暴れ回った後半生は非常に有名だが、若き日の董卓は意外と知られていない。
今回は、三国志最大の悪役である董卓の生涯に迫る。
若き日の董卓
130年後半頃の涼州に生まれた董卓は、武芸に優れた人間であり、馬に乗りながら左右両手で弓を引く特技を持っていた。
涼州は羌族などの異民族が多い土地であり、董卓は自分を尋ねて来た羌族に自分の家畜を料理して振る舞うなど、異民族と交友を結んでいた。
後半生の暴走によって暴君と呼ばれるなど董卓の評価は散々なものだが、前述の通り異民族との交流で大盤振る舞いしたり、反乱を起こした異民族の鎮圧で贈られた褒美を「自分の手柄ではなく部下の手柄」として全て部下に与えたりするなど気前のいい一面もあった。(なお、後者に関しては異民族討伐軍を率いた張奐に取り入るため褒美を贈ろうとしたら、張奐に受け取りを拒否されたから部下に与えたという記述もある)
黄巾族討伐失敗と人生の転機
異民族の討伐で名を挙げた董卓は中郎将に昇進すると、黄巾の乱の討伐に向かう。
しかし、董卓の軍は敗れてあえなく免職となってしまう。
その後、自分の領地で着々と力を蓄えていた董卓に転機が訪れる。
189年、朝廷内部では外戚と宦官による権力争いが繰り広げられていた。
宦官誅滅を目論む外戚の代表格、何進によって各地の群雄に招集が掛かると、董卓もそれに応じて洛陽へと向かっていた。
しかし、何進は宦官によって殺され、宦官も何進の仇討ちに燃える袁紹によって滅ぼされるなど、権力争いはまさかの共倒れに終わる。
また、当時の皇帝である少帝こと劉弁と、皇帝の弟である陳留王こと劉協(後の献帝)は宦官の逃亡に巻き込まれて洛陽の外に連れ出されていたが、たまたま近くに来ていた董卓によって保護される。
皇帝が保護されて一件落着と思われたが、世間の人々は董卓こそが誰よりも厄介な人物だったと思い知る事になる。
董卓に対して満足に会話をする事が出来なかった少帝よりも、今回の一件の経緯を詳細に説明した陳留王の方が賢いと判断すると、董卓は皇帝のすげ替えを目論む。
そのためには宮中に於いても絶対的な権力が必要になるが、董卓の軍勢は3000人しかいなかった。
手始めに董卓は主を失った何進の軍を吸収して自分の配下にすると、次に宮中で自分に堂々と反発する唯一の存在となっていた丁原の殺害を計画する。
だが、丁原には「天下無双の豪傑」と呼ぶに相応しい呂布が付き従っており、さすがの董卓も真っ正面から手を出す事が出来なかった。
真っ向から当たるのが得策でなければ呂布を味方にすればいいという発想の転換によって、董卓は呂布を自軍に引き入れると丁原を暗殺させる。
丁原の死によって宮中に於ける敵がいなくなると、董卓は少帝と母親の何太后を殺して、陳留王を皇帝に据える。
更には漢の建国に貢献した蕭何、曹参に敬意を払うものとして長い間空席だった「相国」という地位を復活させて自ら就任するなど、董卓の行いは一人の家臣として許されるものではなかったが、この後の漢を混乱させる董卓の暴走の序ノ口に過ぎなかった。
董卓の暴走と最期
相国に就任した董卓は金品強奪に婦女の誘拐など悪行三昧だったが、袁紹や曹操を取り込もうとするなど、優秀な人材を積極的に取り入れようとする姿勢も見せていた。
結局、袁紹も曹操も董卓の誘いには乗らず、二人を取り逃がした事が後の反董卓連合の結成へと繋がるきっかけの一つになるが、後世まで伝わる暴政によって自身の支持を得られなかった事は、後の歴史から見ると董卓の痛恨の失敗だった。
191年、袁紹を盟主とした反董卓連合が結成されると、孫堅の活躍によって董卓軍は連戦連敗を重ねる。
不利な戦況を見た董卓は、遷都という名目で洛陽を焼き払って長安に逃げる。
洛陽から長安まで400キロ程度しかなく、快進撃を続ける反董卓連合を前に董卓は絶体絶命のピンチを迎えたように見えたが、連合の中軸を担っていた袁紹と袁術の仲違いによって空中分解したため、董卓を追い詰めながら反董卓連合は解散となってしまう。
最大の危機が自ら去ると、董卓は長安でも暴政を働き、大虐殺に大インフレと世間はまたも混乱する。
董卓の暴走に耐えきれず、とうとう内部からも董卓を取り除こうとする者が現れる。
かねてから董卓の暗殺を目論んでいた司徒の王允は、呂布と董卓の関係が悪化していた事に目を付ける。
董卓の侍女に手を出した事をきっかけに呂布は董卓から命を狙われていると疑心暗鬼になっており、王允は呂布の不安に付け込んで董卓の暗殺を持ち掛け、呂布もその計画に加わる。
192年4月、董卓は献帝の病気の快気祝いという名目で宮中に呼び出されるが、それは王允の罠だった。
董卓は「詔」と称して呂布によって殺され、後漢末期の中国を荒らし回った梟雄の死を世間の人々は喜んだという。
梟雄の死後
董卓の死によって長安に平和が訪れると思われたが、待っていたのは更なる混乱だった。
結局、董卓が死んでも平和は訪れず、長安はその後も戦火に晒され続ける事になる。
そして、ある意味董卓がいたから保たれていた群雄達の均衡が崩れて各地に群雄が散らばり、各地で天下を目指す争いが繰り広げられる時代となる。
董卓の存命時に世間に与えた影響もかなり大きかったが、皇帝の影響力を完全に消して群雄割拠の流れを作った(後漢末期の方向性を決定付けた)という意味では死後に与えた影響も同じくらい大きかった。(董卓の天下が続いていたらと想像するのも恐ろしいが、恐怖政治が長く続いた例はないので近いうちに滅ぼされていたと予想する)
物語に登場する悪役のような人生を現実世界で送った董卓だが、その悪名は早くから世界へと伝わっており、董卓の時代から600年経った8世紀の日本の文献には暴君として董卓の名前が登場している。
色々な意味で後世にその名を残した董卓だが、早くから日本でも存在を知られていたという意味では最も早く「日本進出」を果たした三国志の登場人物であり、悪行が世界に伝わる事の早さと、悪は必ず滅びるという教訓を今日に伝えている。
この記事へのコメントはありません。