中華街の関帝廟(かんていびょう)へお参りに行くと、主祭神である関羽(かん う。字は雲長)の両隣に対照的な二人が近侍していることに気づいたでしょうか。
向かって右に立っている色白な美青年は、関羽の長男・関平(かん ぺい。字は担之)。養子として有名ですが、それは小説『三国志演義(※以下『演義』)』の創作設定で、史実『三国志』では実子として扱われています。
その反対側、向かって左に立っている色黒なコワモテ男は、関羽に仕えた忠臣・周倉(しゅう そう)。
実は『三国志』には登場しない『演義』のみのオリジナルキャラクターですが、その強烈なインパクトから、こんにち関羽を語る上で欠かせない存在となったのです(関羽の得物である青龍偃月刀を預かっていることからも、彼の重要性がわかります)。
そこで今回は、関羽の活躍を支えた周倉のエピソードを紹介したいと思います。
黄巾党の乱に破れ、山賊の頭目になる
周倉は涼州(現:甘粛省)出身、鉄板のように硬く分厚い胸板と渦のような縮れヒゲが特徴で、その両腕には一千斤(※約226.7kg)の怪力があったそうです。
(※)『三国志』当時(漢代)の一斤は約226.7gなので、それを1,000倍して約226.7kg。ウェイトリフティング競技では246kg(クリーン&ジャーク)という世界記録もあるので、ありえないこともないと言ったところでしょうか。
生年は不詳ですが、中平元184年に太平道(たいへいどう)の教祖・張角(ちょう かく)が蜂起した「黄巾党(こうきんとう)の乱」に参加します。
「蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉!」
【大意】蒼天はすでに死し(天は腐敗した漢王朝を見放し)、今こそ黄天≒黄巾党が立つべきだ。歳は甲子(きのえ ね)にありて、天下は大いに吉となろう!
清代の地方史『山西通志』によれば、周倉は張宝(ちょう ほう。張角の弟)に仕えたと伝えられています。
「腐れ役人は根こそぎ殺し、大賢良師(たいけんりょうし。張角)様と新しい世を創るんじゃ!」
世直しを目指して大いに武勇を奮ったであろう周倉たちですが、精神的支柱であった張角が病死すると、にわかに形勢が逆転。官軍によって張宝の弟・張梁(ちょう りょう)が討ちとられてしまうと、次第に敗色が濃厚となっていきました。
最後まで抵抗した張宝も討死(『演義』では妖術を破られて敗走中、部下の厳政に殺されている)すると、もはや残るは烏合の衆。蜘蛛の子を散らすように逃げ出します。
「いかん。者ども、ずらかるぞ!」
乱痴気騒ぎを起こしても、責任を問われにくいのが下っ端のいいところ(?)、官憲の追手を逃れた周倉は、戦友の裴元紹(はい げんしょう)と共に、手下を引き連れて臥牛山(がぎゅうざん。現:不詳)へ立て籠もり、山賊の頭目になったのでした。
憧れの関羽に仕える
それからというもの、山賊家業に精を出すこと十数年。建安五200年のある日、臥牛山のふもとを通りがかる者がいました。
「周兄貴、女の輿を護衛する連中が来やしたぜ」
「ほう……それじゃあ裴の兄弟、ちょっと挨拶してきてくれ」
「任せとけ」
さっそく裴元紹が手下を率いて山を下りて行ったかと思ったら、間もなく息せき切って戻って来ます。
「おい周倉……聞いて驚け。あれは関雲長のご一行だ!」
「何だって!」
かねて憧れだった天下の豪傑・関羽がこんな片田舎へ……これは是非ともそのお傍へお取り立て願おうと、喜び勇んで山を転がり下りて行きました。
……しかし関羽は「いかに豪傑と言えども、賊徒を従えるのは兄者(劉備。りゅう び)の体面がなぁ……」と難色を示します。
そこを何とか……弱っていると、輿の中から劉備夫人が「まぁそんな堅いことを言わず、せっかくやる気と能力があるようですから、チャンスをあげて下さいな」と口添えしたことで、周倉だけ同行を許されました。
「兄貴、きっと迎えに来て下せぇよ」
「あぁ……」
かくして周倉を待ちながら手下を預かっていた裴元紹ですが、ある日、劉備たちと離れ離れになり、浪人していた趙雲(ちょう うん。字は子龍)によって殺されてしまいます。
「おのれ、兄弟の仇!」
迎えにきた周倉も返り討ちに遭ってしまい、関羽によって「この者は趙子龍だ。そなたの敵う相手ではない」と仲裁されたのでした。
敵中での領土交渉、関羽に随行
その後、劉備が荊州(けいしゅう。現:湖北省一帯)についで益州(えきしゅう。現:四川省方面)も制圧すると、周倉は関羽の部下として荊州の守備に就きます。
すると、東の孫権(そん けん。字は仲謀)が荊州を「本来我らが支配すべき土地」として返還を求め、これを拒絶した劉備と激しく対立。
領土交渉のために孫権の使者・魯粛(ろ しゅく。字は子敬)との会談に出向いた関羽に周倉も同行、その罠(闇討ち)を察知して二人でひと芝居を打ちました。
荊州は劉備と孫権、どちらが支配すべきか……関羽と魯粛の議論がこじれたところへ、周倉が合図の口を挟みます。
「天下の土地は徳ある者こそ治めるべきであり、孫仲謀の私物化は許されぬ!」
「黙れ周倉、下がれ!」
関羽に叱られて自然な形で議場を退出した周倉は付近に控えていた友軍に接近の合図を送り、また関羽も青龍偃月刀を手に「ここらで夜風でも浴びて、お互い頭を冷やしましょう」とでも言いながら魯粛を抱え込みます。
要するに人質にとった訳ですが、こうなっては孫権の刺客も手が出せず、そのまま関羽たちを解放せざるを得ませんでした。
このエピソードは「単刀会(刀一振りで敵中での会談に臨む)」と呼ばれ、今日でも雑劇「關大王獨赴單刀會(関大王=関羽、独り単刀会へ赴く)」など、さまざまな形で親しまれています。
最期は関羽の後を追って……
さて、荊州をめぐって孫権と争う関羽たちでしたが、北の曹操(そう そう。字は孟徳)も黙ってはいません。
建安二十四219年、関羽は曹操の腹心・于禁(う きん。字は文則)の軍勢を水攻めで打ち破り、周倉も敵の副将・龐徳(ほう とく。字は令明)が乗っていた船を転覆させ、得意の水練で捕らえる手柄を立てました。
しかし「関羽、侮りがたし」と、曹操と孫権が同盟すると、関羽は次第に追い詰められていきます。
「調略によって、配下が次々と寝返ってしまった……援軍はまだか!」
一方、益州の劉備たちはそっちの対応で手いっぱいとなっており、まさに孤立無援の状態です。
「糧道も寸断され、このままでは飢え死にを待つのみ……やむを得まい。少数精鋭で敵の包囲を突破して、益州に援軍を求めて来よう」
同行を願った周倉ですが、関羽によって「最後の拠点である、この麦城(ばくじょう)を死守せよ」と止められ、涙ながらに見送ったのが今生の別れとなってしまいます。
王甫(おう ほ。字は国山)と二人で麦城を守備していた周倉ですが、願いも虚しく関羽は罠にかかって敵に捕らわれ、処刑されてしまいました。
「……かくなる上は、もはや生きる望みもない……残った者は、みな降伏せよ」
さらされた関羽の首級に絶望した周倉は、部下たちにそう言い遺して城壁から身を投げたとも、王甫と共に自刎したとも言われています。
どこまでも関羽ひとすじ!
……以上、周倉の忠臣ぶりについて紹介してきましたが、シリアスな物語はここまでにして、以下は周倉にまつわる笑い話で〆ようと思います。
架空のキャラという事もあって、周倉はとかく人間離れした体力で関羽に奉公しますが、その健脚ぶりは関羽の愛馬である赤兎馬(せきとば)に並んで走ることが出来たそうです(んなバカな)。
いつも走ってついて来る周倉を気の毒に思った関羽は、ある日、周倉に一日に九百里を走れるという名馬を与えました。
関羽からの心遣いが嬉しかった周倉ですが、赤兎馬は一日に千里を走るため、これでは一日ごとに百里の差がついてしまいます。
そこで周倉は、一日のうち九百里は名馬に乗って走り、後の百里は名馬を担ぎ、自分の脚で走って関羽を追い駆けたそうです。
だったら最初から自分で走った方が速かろうに……と思ってしまいますが、関羽からの心遣いが嬉しくて仕方ない周倉なりに、実利との両立を図った結果なのでしょう。実に健気ですね。
※ちなみに、漢代の一里は約400mですから、赤兎馬は一日に400kmを走破できることになり、休憩や食事などを入れて8時間とすれば、時速50キロ平均の速度が出たことになります。
もう一つ。孫権の部将・呂蒙(りょ もう。字は子明)は関羽と(いつもつき従っている)周倉を、二人同時に討つのは難しいと考え、両者を引き離す策を考えていました。
ある日、周倉の友人を買収して、足が速い秘密を調べさせたところ、足の裏に生えた三本の毛が速力のカギと知ります。
そこで友人が周倉を酒に誘い、酔いつぶれたところで足の裏の毛を三本とも抜いた結果、周倉の足が遅れて関羽とはぐれ、呂蒙は関羽を捕らえられたのだとか。
どこまでも(それこそ、あの世まで)関羽につき従った周倉の姿は人々の心に響き、今なお多くの関羽ファンに愛されています。
※参考文献:
村上知行 訳『ザ・三国志』第三書館、1998年3月
松枝茂夫 訳『全訳 笑府―中国笑話集〈上〉 (岩波文庫)』岩波書店、1983年1月
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