謎に包まれた盲夏侯の生涯
昔の人が書いたからか、三国志には登場人物に対してインパクト絶大の描写が目立つ。
一度見たら忘れられない風貌を見てファンになった関羽と張飛は勿論、福耳では済まされない巨大な耳に、長い手足が自慢のNFL選手でも見ない長い腕を持った劉備を加えた三人が街を歩いていたら、周囲は引いて道を譲っただろう。
話がやや逸れたが、今回の主役は、三国志にいそうでいない隻眼キャラとして人気の夏侯惇(かこうとん)だ。
演義で曹性に射貫かれた目を食べるという衝撃的なシーンはあまりにも有名だが、夏侯惇=目を食べた(そして「盲夏侯」の名を嫌がり鏡を見ては割っていた)というイメージが強すぎて他の活躍があまり記憶になく、どのような人物だったか答えられる者は多くない。
今回は、意外と知られていない夏侯惇の生涯と人物像を紹介する。
夏侯惇の血縁関係
夏侯惇は漢の功臣、夏侯嬰(かこうえい)の末裔を自称する家庭に生まれた。
曹操と夏侯惇が従兄弟関係にあるのは有名な話だが、結論からいうとそれが歴史書に明確に書かれている訳ではない。
血縁関係の鍵を握る曹嵩(曹操の父親)は武帝紀には登場せず、裴松之が注釈を付けた『曹瞞伝』に「曹操の父親である曹嵩(宦官曹騰の養子)は夏侯氏の出身であり、夏侯惇の父親は曹嵩の兄だった」という記述があるのみで、三国志の生みの親である陳寿は曹操と夏侯惇の血縁関係には言及していない。
曹瞞伝の記述を信じるのであれば、父親が宦官の養子になるなど曹操も意外と複雑な家庭だが、陳寿が書いていないというだけの理由で血縁関係を否定する事も出来ないため、曹操と夏侯惇が従兄弟である説を支持する者は多い。
また、同じ夏侯姓の夏侯淵とは血縁関係こそあるものの、遠縁にあたる関係のようで、曹操と夏侯惇ほど血縁関係は近くないようである。
若き日の夏侯惇
夏侯惇は曹操が挙兵してから220年にこの世を去るまで付き従った数少ない人間の一人であり、正に「曹操陣営の心臓」と呼ぶに相応しい存在だったが、最初に書いた通り隻眼以外のイメージがほとんどない。
夏侯惇伝の記述を見ると、14歳の時に自分の師を侮辱した男を殺したと書かれており、怒らせたら恐い人物だったようだ。(当時の中国も殺人罪はあるので戦争以外で人を殺していいのかという疑問があるが、いわゆる斬り捨て御免の文化が中国にもあったと解釈する)
その一方で、普段の夏侯惇は清廉潔白を体現したような人物であり、蓄財には一切興味がなく、金に余裕があったら人々に分け与える(そのため金欠で借金をしていた)という、人格者の一面を持っていた。
怒らせたら恐いが機嫌が悪いからという理由で理不尽に怒る事もなく、実際は至って真面目という嫌われる要素ゼロの性格なので当然ながら人々から慕われ、曹操のナンバー2になったのも納得である。
意外と負けている?夏侯惇の敗戦が目立つ理由
そんな夏侯惇だから戦場でも多くの戦果を挙げているだろうと思って正史を読むと、夏侯惇が活躍した場面はほぼ存在しない。
曹操の旗揚げから付き従って各地を転戦しているのは間違いないのだが、有名な武将を討ち取ったという功績がなければ、曹操の命を救ったという武勇伝もない。
それを言うなら筆者のお気に入りである関羽も正史で大した活躍はしていないと返されるだろう。
その指摘はごもっともで、こちらも仰る通りですと頭を下げるしかないが、正史の夏侯惇は敗戦が多く、特に呂布との相性の悪さが目立つ。
列挙すると
呂布との戦いで負けて捕虜になった。(殺されてもおかしくなかったが韓浩に救出されて無事に生還した)
その後、再度挑んだ呂布との戦いで流れ矢によって左目を負傷する。(厳密にいえば敗走した訳ではないが、夏侯惇を語る上で欠かせないエピソードである。但し、演義で夏侯惇を射撃した曹性は関係なく、目を食べたのは完全なフィクションである。勿論、夏侯惇が曹性が討ち取ったという記述も存在しない)
呂布の攻撃を受けた劉備の救援に向かったが、張遼と高順に敗れた。(記述がシンプルすぎて詳細は不明だが、またも呂布軍に負けた事に変わりはない)
夏侯惇が呂布の捕虜になっていたという事実も驚きだが、夏侯惇が無能だったというつもりはなく、歴史書の「トリック」がある。
例えば、織田信長は生涯戦績で7割以上という高い勝率を誇っているが、カウントによってバラつきはあるものの、生涯で15~20敗と意外なほど負けている。
あの織田信長がそんなに負けていたというのも驚きだが、それ以上に信長の活躍で勝っているため敗戦の多さはそこまで目立っていない。
一方、夏侯惇の場合は曹操の元で戦っていたため必然的に参戦した戦いの勝率は高いはずだが、戦闘では大した活躍をせず、参戦した戦闘の敗戦ばかり書かれるためどうしても印象が悪くなる。(203年の博望坡の戦いでは劉備にも負けているため、夏侯惇自身が指揮官として軍を動かすのは得意ではなかったようだ)
指揮官向きではないとはいえ、呂布や劉備に喫した派手な敗戦を除けば大きな失敗もない訳で、曹操から与えられた任務の大半は期待通りにこなしていたといえる。
惇兄と呼ぶに相応しい人格者
正史の記述が乏しいため武将としての夏侯惇の評価は難しいが、夏侯惇の人柄を表すエピソードとして、灌漑工事の命を受けた夏侯惇は、監督として見ているだけという事はせず、自ら土嚢を担いで工事に参加したと書かれている。
記述こそシンプルだが、責任者である夏侯惇が自ら身体を張っているのを見て奮い立たない部下はいなかった事は想像に難くない。
また、戦場に講師を招いて陣中で勉強するなど、生涯を通して努力を続けた人だった。
演義のように関羽と渡り合う猛将ぶりも魅力はあるが、正史に描かれた真面目で人格者の夏侯惇は素直に尊敬したいという気持ちになるし、演義よりも好感が持てる。
『三國無双』シリーズでは夏侯淵から「惇兄」と呼ばれ、ファンからも親しまれているが、誰からも尊敬される夏侯惇だからこそ曹操も最大限の信頼を置き、どれだけ敗れようが厚遇し続けた。
ある意味人柄で得をしたような書き方になってしまったが、組織を纏めるリーダーには実力と同じくらい人間性(人柄)も重要であり、エゴとプライドの塊が揃った曹操軍が纏まっていたのは曹操とも同僚とも、誰とでも上手くやれる夏侯惇の存在が大きかった。
人々の心を掴む事に関しては三国志でもトップクラスの人格者である夏侯惇がいたからこそ、三国志最大勢力の魏が生まれた。
最後まで特別扱いを嫌がった夏侯惇
戦下手ではあったが、それを補って余りある人柄で曹操を初めとした全ての人間の信頼を勝ち取った夏侯惇は、曹操と同じ車に乗る事を許されるといった特別扱いを受け、周囲もそれを気にしないという魏に於いて特別な存在だった。
また、曹操は夏侯惇だけ魏の位を与えず、漢の臣として接していたと書かれている。
「臣下」ではなくあくまで「同僚」という関係であろうとしたのは曹操から夏侯惇への最大の敬意(不臣の礼)だったが、夏侯惇はそれらの特別扱いを嫌がり強く魏の役職を求めたため、根負けした曹操はやむなく魏の前将軍に任命したというのも夏侯惇らしいエピソードである。
220年に曹操がこの世を去ると、夏侯惇も曹操の後を追うように病死するが、夏侯惇の墓から発見されたのはたった一振の剣だけだったという。
あの世に金は持って行けないというが、その言葉を知ってか知らずか必要以上の金は持たず、あっても人ために使う生涯を全うした夏侯惇らしい墓だった。
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