暴虐教祖
三国志で有名な宗教と言えば、黄巾の乱で有名な「太平道」やここから派生した「五斗米道(ごとべいどう)」などが有名です。
上記二つの宗教は「道教」から派生した宗教であり、少なくとも三国志の時代においては「民を救済する」ことが教団の目的の一つでもありました。
ところが、今回紹介するこの笮融(さくゆう)は、まだ中華の地に普及して間もない「仏教」を利用し、己の欲望を満たそうとしたとんでもない人物であります。
乱世に疲れた民草の信仰心を利用し、最終的に仏罰が降った悪の教祖をご紹介します。
中国の仏教伝来について
中国大陸に仏教が伝来したのは約1世紀ごろと言われています。
古代からシルクロードを通してインドから中国へ伝搬したと言われており、仏像なども交易商人などが持ち込んで来たため、徐々に中華圏で認知されていくようになります。
後漢王朝期には2代目皇帝である明帝(めいてい)が光り輝く高僧の夢を見たため、洛陽に白馬寺(はくばじ)を築き、仏教の教義を求めたという話があります。
11代目皇帝の桓帝(かんてい)の時代には西域の者が多く訪れ、経典の翻訳作業が著しく進むようになり、三国志序盤でお馴染みの12代皇帝である霊帝(れいてい)の代には、江南地方においても仏教の浸透が見られるようになります。
笮融登場
仏教が徐々に中華圏で浸透していく中、後漢王朝は腐敗し、太平道の教祖である張角が184年に黄巾の乱を起こしたため後漢王朝の権威は失墜。中華は群雄割拠の乱世へと移り変わります。
このような不安定な情勢の中、笮融(さくゆう)は表舞台に登場します。
もともと出身は揚州(ようしゅう)の丹楊郡(たんようぐん)と言われており、この時にちょうど江南地方に浸透してきた仏教にある程度、笮融は触れていたと思われます。
その後、太守である陶謙(とうけん)が治める徐州(じょしゅう)が豊かな土地であると聞きつけると、陶謙の下に身を寄せます。
笮融は陶謙により兵糧輸送などの監督官に任命されますが、職権を良いことに兵糧物資を不正に横領し、密かに自立を画策します。
大寺院建設
もともと笮融が赴任した土地である広陵(こうりょう)、彭城(ほうじょう)は、かつて後漢王朝の楚王英(そおうえい)が治めていた土地であり、さらに楚王英は大の仏教信者でもありました。
この影響もあり、庶民の間でも仏教を信じる者が数多くいたため、仏教に教養のある笮融が彼らを信者に取り組むことは難しいことではなかったのです。
信者を獲得し、物資の横領で資財を蓄えた笮融は、それを元手に大寺院の建造を開始し、3000人の信者が収容できるほどの「浮屠祠」(ふとし)と呼ばれる大きな寺院を建設しました。
また、笮融は仏誕節の日(※釈迦の誕生日)に盛大な法会を執り行ない、豪華絢爛な酒宴を開きます。
この酒宴は身分に関係なく参加できたので、これを機に仏教徒に帰依する者が後を絶たず、結果的に信者の数は5,000人以上に達したといいます。
陶謙を裏切り、広陵を略奪す
教祖として君臨する笮融でしたが、ここで事件が起こります。
193年、曹操(そうそう)の父親である曹嵩(そうすう)が、陶謙の領内である徐州で何者かに殺害されるという事件が発生。
激怒した曹操は大軍を率い、徐州領内の民衆を虐殺しながら進軍を続けたため、徐州は大混乱に見舞われます。
これを見た笮融は曹操を恐れ、一万人の信者と牛馬三千匹を引き連れて広陵太守の趙昱(ちょういく)に助けを求めます。
趙昱は忠実正直な人物であったため、笮融と信者らを迎え入れ、笮融を賓客の礼をもって厚くもてなしました。
しかし、笮融は助けられたにも関わらず、酒宴の席で突如として趙昱を切り殺すと、信者らに命じて広陵を略奪する暴挙に及びます。
趙昱は後に「呉の二張(ごのにちょう)」と呼ばれる張昭(ちょうしょう)と張紘(ちょうこう)から尊敬されていたほどの人物であり、特にこの事件を知った張紘は笮融を大いに恨んだ言います。
孫策と戦う
広陵を略奪し尽くし、物資を潤沢にした笮融と信者一行は長江を渡り、親交のあった彭城国(ほうじょうこく)の相である薛礼(せつれい)の下を訪れます。
薛礼は笮融を迎え入れ、共に揚州刺史の劉繇(りゅうよう)を盟主と仰ぎます。
しかし、今度は劉繇が「江東の覇王」の異名を持つ孫策(そんさく)に攻め入られたため、これを迎撃せざるを得なくなってしまいます。
笮融は秣陵城(まつりょうじょう、後の呉の都である建業)の南に駐屯し、一時は孫策を負傷させますが、逆に孫策の罠に嵌まり、散々に打ち破られてしまいます。
これを見た孫策は笑いながら
孫家の若君のお手並みはどんなものだ!
と笮融の軍に発したと言います。
再び裏切る
大敗北を喫した劉繇軍は豫章(よしゅう)へと撤退したため、笮融たちもこれに従います。
しかし、この時、豫章は太守の座を巡って朱皓(しゅこう)と諸葛玄(しょかつげん※諸葛亮の叔父)が激しく争っている状況でした。
このとき劉繇は朱皓こそが正式な太守であるとし、笮融と薛礼に出撃を命じます。
笮融は得意の流言で民草を煽動すると、諸葛玄を攻撃。この戦いで諸葛玄は戦死してしまいます。(※これにより諸葛亮と兄の諸葛瑾らは荊州へ移り住むこととなる。)
諸葛玄を破り、朱皓から手厚く迎えられる笮融でしたが、なんと笮融は朱皓を殺害し、その場で豫章太守を宣言します。
哀れな最後
さらに、笮融と共に行動していた薛礼も有無をいわず殺害されてしまいます。
笮融が謀反を起こしたとの報を聞いた劉繇は激怒し、討伐の軍を差し向けます。
両軍の戦いは激戦に及びましたが、笮融の軍は大敗を喫し、軍は散りじりとなってしまいます。
笮融は逃れた森の中で、連れ添った信者たちに再び決起の宣言を叫ぶも、もはや信者たちに笮融を敬う気持ちは残ってはいませんでした…。
信者たちは笮融を取り囲むと、剣を笮融に突き刺し、殺害してしまいます。
この笮融の最後を見て、南宋の僧侶である志磐(しばん)は厳しく言及しています。
「仏教者とは善行をなす人のはずではないか。士大夫としても歴史家から姦妄貪酷と評価されているのだから、(儒教倫理の面でも)不忠不孝とされるべき恥さらしである。であれば善行をなすべき仏教者としてはなおさら恥さらしであろう。」
宗教を利用した非道な教祖は名もなき信者らに殺され、後の世まで汚名を残すこととなりました。
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