三国志の前半で最大の山場とも言われる「官渡の戦い」にて曹操に破れた袁紹(えんしょう)。
この袁紹は、多くの三国志関連のエンタメにて『四世三公の名門』と呼ばれている。
エリートであることはなんとなく分かるが、そもそも「四世三公」とは何のことなのだろうか?
ゲーム『三国志』の袁紹のプロフィールを見てみる
まずは、ゲームに登場する袁紹のプロフィールを見てみよう。
袁紹(えんしょう)
袁術の従兄(兄とも)。四世三公の名門。曹操の友人。
【演義】何進に重用され、何進が宦官に暗殺されると宦官を虐殺した。董卓が実権を握ると渤海に逃れ、曹操の呼びかけに応じて反董卓連合の盟主となる。連合解散後、同じく連合に参加していた韓馥から冀州を奪い、公孫瓚を倒して河北を支配。最大の勢力を築くが、官渡の戦いで曹操に大敗。復権を期した倉亭の戦いでも敗北し、後継者を定めぬまま病死した。
【正史】韓馥と共に、劉虞を皇帝に即位させようとするが断られる。郭図から献帝擁護を提案された時は拒否した。
引用:袁紹 – 三國志14・三國志14 with パワーアップキット攻略 Wiki (https://wikiwiki.jp/sangokushi14/%E8%A2%81%E7%B4%B9)
こちらは現在の最新版となっている、三国志14withパワーアップキットにおける袁紹のプロフィールである。
1行目から『四世三公の名門』とある。
ゲーム制作会社・コーエーも「袁紹は四世三公の名門でエリート」とキャラ付けしていることがよく分かるプロフィールとなっている。
三公とは何か?
次に「三公」について簡単に解説していこう。
この三公とは簡単に説明すると『帝を補佐する最高の地位にある3人の役職』である。
そのルーツは、紀元前1000年頃に誕生した周王朝時代とされ、非常に歴史の長い役職なのだ。
国政に関する政策全般を統括する役目を担う存在であり、この官職に就けたら確かにエリートだろう。
時代によってその呼ばれ方は異なってくるが、秦の時代では丞相(大司徒)・太尉(大司馬)・御史大夫(大司空)が三公であった。
これが後漢の時代になると、司徒・太尉・司空と呼ばれるようになる、
それぞれの役割について解説する。
司徒:行政を司る役職で、現代日本の役職として近いのは総理大臣
太尉:軍事を司る役職で、現代日本の役職として近いのは防衛大臣や警視総監
司空:裁判や刑罰や政策立案を司る役職で、現代日本の役職として近いのは法務大臣や国土交通大臣
しかし、曹操は208年に司徒・太尉・司空を廃して、丞相と御史大夫を復活させ、さらに自身が丞相となり三公制度を廃止している。
これはある意味、今までの国のあり方を否定したとも言えるだろう。
ちなみに、この三公という考え方は日本にも入ってきている。
7世紀後期から10世紀頃まで実施された律令制で「太政大臣・左大臣・右大臣」が、三公に該当していたようだ。
四世三公について
改めて「四世三公」とはどういう意味かを見てみよう。
これはつまり、「叔父や父親、さらにその上の代を含めて三公になった人物を4代輩出している」という意味だ。
袁紹の叔父であり袁術の父親である袁逢は司空、袁紹と袁術の叔父にあたる袁隗は司徒、袁紹と袁術の祖父である袁湯が大尉、さらにその上に叔父である袁敞が司空に、その袁敞の父親である袁安が司空になっている。
このように父親世代・祖父時代・曾祖父時代・高祖父時代で、何らかの三公になった人物を輩出している家柄であり、まさに名家と言えるだろう。
日本で例えるなら、総理や大臣職を4代にわたって輩出しているということだ。
ちなみに、袁紹や袁術は三公にはなっていない。(※袁術は玉璽を手にして自ら皇帝を名乗っているが、ここでは省くこととする)
とはいえ、袁紹は軍事の最高司令官『大将軍』にはなれているので、十分にエリートであったと言えるだろう。
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