『三国志演義』は、蜀の英雄たちを中心に描かれた歴史小説であり、中国の古典文学の中でも特に有名である。
『三国志演義』は史実を元にしてはいるが、あくまでも小説であり、フィクションを織り交ぜながら面白おかしく三国時代の人物たちを描いている。
その中でも特筆すべき存在なのが、道士(仙人)として描かれる于吉(うきつ)である。
于吉は「小覇王」と呼ばれた呉の孫策を呪い殺した存在として知られ、特に謎めいた人物である。
本稿では、于吉の謎に迫り、『三国志演義』および『正史』においてどのように描かれているのかを探求する。
于吉とは
于吉の生涯や出自については詳しい記録が少なく、その存在自体が伝説の域に達している。
一説によれば、100歳近く長生きしていたという。また、神秘的な力を持っていたことから、仙人として崇められていた。
三国志演義においての于吉と孫策
孫策と于吉の最初の出会いは、孫策が勢力を拡大していた頃に遡る。
于吉は、民間での治療や祈祷を行い、多くの人々から信仰を集めていた。彼の名声は孫策の耳にも届き、当初はその神秘的な力に興味を持っていたとされる。しかし、次第に孫策は于吉の人気が自身の権威に影響を与えることを懸念するようになった。
『三国志演義』では、2人の関係は以下のように描かれている。
孫策の負傷と療養:許貢(きょこう)の食客に襲撃され、負傷した孫策は、医師から絶対安静を指示される。
苛立ちの増大:療養中、孫策は曹操の軍師・郭嘉に軽視されていることを知り、敵対感情と苛立ちを募らせる。
袁紹の使者との宴会:苛立つ孫策のもとに袁紹の使者が共闘を持ちかけてきたため、孫策はこれを喜び、使者を歓迎するために宴会を開く。
于吉の登場:宴会中、一部の人々が突然席を離れ、門の下へ駆け下りて于吉仙人を拝みに行く。
孫策の怒り:術を全く信じない孫策は、その行動に憤り、人々の病を癒す于吉を「黄巾の同類」として斬り捨てようとする。
赦しの願い:民や一部の配下から于吉の赦しを願われるが、孫策はその人望の高さを嫌い、処刑を決意する。
雨乞いの試練:呂範の提案で、于吉が「雨風を操れる仙人」であることを証明するため、雨乞いをさせるが、雨は降らない。
豪雨の奇跡:孫策が于吉を火あぶりにしようとすると、突然豪雨が降り出す。この奇跡に民衆は驚嘆するが、孫策はそれでも認めず、于吉を捕らえ斬首する。
屍の消失:孫策は于吉の屍を市中に晒すが、その晩に屍が忽然と消える。
于吉の呪い:その後、孫策は于吉の呪いにより衰弱し、最終的には鏡に映る于吉の姿を見て発狂、昏倒する。
孫策の死:孫策は弟の孫権に後を託し、亡くなる。
このように、于吉は孫策の死に大きく影響のあった人物とされている。
孫策の直接的な死因については、上記にもある「許貢の食客に襲撃されて負傷したこと」である。
孫策は急速に勢力拡大したが、その反面、滅ぼされて孫策に恨みを持つ勢力も増えていった。晩年はこれらの残党が起こした反乱の鎮圧と、反乱勢力の粛清に追われていた。
孫策に敗れた勢力の一人である許貢は「孫策の武勇は項羽に似たものがあり、朝廷に置いて囲うべき」と書いた上奏文を朝廷に送ろうとしたが、それを知った孫策は激怒して許貢を殺してしまったのだ。
その後、孫策は一人で外出したところを許貢の食客に襲われて、結果的に26歳の若さで命を落とすこととなった。
于吉は正史に登場しているのか?
まず、陳寿の『三国志』には于吉の名前は登場していない。
しかし、南朝宋時代の裴松之(はいしょうし 372年~451年)が『三国志』に注釈を加えており、そこで初めて于吉の名前が登場する。
裴松之は孫策の最期に関する逸話を『江表伝』『志林』『捜神記』などの史料から引用し、于吉の名前を記している。
これらの史料には異なるエピソードが含まれており、「于吉は道士である」「人望があった」「孫策に処刑された」と伝えられている。
特に『江表伝』と『捜神記』の孫策と于吉のエピソードは、『三国志演義』の描写に影響を与えたと考えられる。
これにより、于吉の実在性が高まることとなった。
于吉の影響
于吉の呪いによって孫策が命を落としたという逸話は、その後も人々の間で語り継がれ、于吉の神秘的な力はますます神聖視されるようになった。
道教の教えが広がる中で、于吉は仙人としての地位を確立し、その伝説は後世にまで影響を与え続けたのだ。
現代においても于吉の存在は研究対象となっている。その謎を解明することは当時の社会や文化を理解する一助となるであろう。
参考 :『三国志演義』『正史三国志』
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