三國志

【三国志 資治通鑑】 曹操の驚異的な才能はいかにして現れたのか?

曹操とは

曹操の驚異的な才能はいかにして現れたのか?

画像 : 曹操イメージ by草の実堂

曹操(字:孟徳)とは、中国後漢末期から三国時代にかけて活躍した軍事・政治の天才である。

彼の才能は、多岐にわたり、戦略的な洞察力、政治的な手腕、そして人心掌握術において顕著であった。

ここでは、『史記』『漢書』『正史三国志』などと並ぶほど極めて評価の高い歴史書『資治通鑑』の記述を参考に、曹操の才能とその背景について解説する。

少年期の曹操

曹操は、幼少期から機敏で聡明であったが、その行動はしばしば放蕩と見なされた。
家の事業をやろうとはせず、当時の人々は彼の才能を特に優れているとは評価していなかった。

しかし、太尉の橋玄(きょうげん)や南陽郡の何顒(かぎょう)といった人物だけは、曹操の特異な才能を見抜いていた。

橋玄は曹操に会った際に以下のように評している。

天下はまさに乱れんとしている。命世の才(天命によってこの世に降臨した人材)でなければ人々を救うことはできない。天下を安定させられる者は貴殿であろう」  『資治通鑑』より意訳

また、何顒は「漢家がまさに亡びんとするとき、天下を安んずる者は必ずこの人であろう」と評している。

ちなみに曹操は後に、袁紹の残党を一掃するために再び官渡を渡る際、橋玄の墓に使者を送り、このときの知遇に感謝を示している。

許劭との出会い

曹操の才能が認められる転機の一つが、人物批評家・許劭(きょしょう)との出会いである。

画像 : 許劭イメージ by草の実堂

許劭は、人々の品行と能力を評価し、月ごとにその順位を変える「月旦評」を行っていた。

曹操は彼の評判を聞きつけ、直接訪問して「わたしはどんな人間ですかな?」と尋ねたという。

許劭は当初、曹操の態度を卑しんで答えなかったが、曹操が答えるよう迫ると、許劭は「あなたは治世の能臣、乱世の姦雄だ」と評した。

この言葉は、曹操の性格と才能を見事に表現しており、曹操自身も大いに喜んだという。

軍事的才能の発揮

曹操の軍事的才能は、まず黄巾の乱の鎮圧において顕著に現れた。

画像 : 黄巾の乱イメージ by草の実堂

潁川郡の黄巾軍の波才が長社城を包囲した際、皇甫嵩は少ない兵力で防戦していた。そこに曹操が騎都尉として兵を率いて到着し、皇甫嵩と協力して黄巾軍を撃退した。この時の曹操の迅速な行動と戦術は、この勝利に大いに貢献した。

さらに、皇甫嵩と曹操は朱儁(しゅしゅん)と軍を合わせ、賊を大敗させた。この戦いでの斬首は数万級に及び、朝廷からも高く評価され、曹操の軍事的才能は広く知られるようになったのである。

政治的手腕と人心掌握術

政治的手腕も曹操の才能の一つである。曹操は常に先を見据えた行動を取り、状況に応じて柔軟に対応することができた。

例えば、黄巾の乱の鎮圧後、曹操は兵を解散させず、次なる戦いに備えるために戦力を維持した。
これにより、後の戦乱においても迅速に対応することができたのだ。

また、曹操は人心掌握術にも長けていた。部下や民衆の信頼を得るために常に寛容な態度を示し、困難な状況でも冷静さを失わず、適切な判断を下すことで人々の尊敬を集めた。

さらに曹操は才能を持つ者を見抜く目を持ち、優れた人材を登用し、適材適所に配置した。

画像 : 荀彧 public domain

例えば荀彧郭嘉は極めて優秀な軍師であり、戦略や戦術を支える重要な存在であった。

荀彧は主に内政を担当し、郭嘉は軍略を練ることで、曹操の勢力拡大に大きく貢献した。

曹操の家族環境

曹操の才能の背景には、彼の家族環境も影響している。

曹操の父である曹嵩は、中常侍曹騰の養子となっていた。(※曹嵩は夏侯氏の子だったという説もある。)

『4人の皇帝に仕えた宮中のボス』 曹騰とは ~宦官の頂点を極めた曹操の祖父
https://kusanomido.com/study/history/chinese/sangoku/83316/

曹騰は宦官として後漢の宮廷で高い地位であり、その影響力は曹操の成長に大きく寄与した。

曹操は、こうした人脈をうまく活用しながら、自らの地位を築いていったのである。

最後に

画像 : 曹操 public domain

曹操の才能は、その背景にある家族環境や教育、そして自身の経験から形成されたものであり、彼の成功は偶然ではなく緻密に計算された結果であろう。

曹操は、その後も多くの戦役で卓越した指導力を発揮し、後漢末期の混乱を収束させるための中心的存在となり、その影響は死後も続くこととなる。
後継者である曹丕は、魏の初代皇帝としてその遺産を受け継ぎ、三国時代における魏の基盤を築いた。

曹操の戦略的思考や人心掌握術は、後の歴史家たちによって高く評価され、その名は永遠に語り継がれている。

参考 :『徳田本電子版 全訳資治通鑑

関連記事 : 【三国志 資治通鑑】なぜ「黄巾の乱」は起こったのか?「人口が1/4に大激減」

 

アバター

草の実堂編集部

投稿者の記事一覧

草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 『三國志14』をクリアしてみた ~感想編~ レビュー
  2. 曹操孟徳の少年期について調べてみた「正史三国志」
  3. 【三国志】 勇猛すぎて命を落とした孫堅の生涯 「反董卓連合のMV…
  4. 諸葛孔明は本当に天才軍師だったのか?
  5. 張遼の異常な武力と合肥の戦い【正史の方が活躍していた】
  6. 高順とは ~「呂布の危機を救った陥陣営と呼ばれた猛将 」
  7. 【三国志】曹操じゃなかったの?諸侯に董卓討伐を呼びかけた橋瑁(喬…
  8. 劉備と関羽の本当の関係 「一緒にいた期間は実は少なかった」

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

明智光秀の出自と生誕地について調べてみた

明智光秀といえば、本能寺で織田信長を討った織豊大名として、その名を知らない人はまずいません。…

テレビ時代劇『鬼平犯科帳』歴代鬼平のエピソード 「初代・松本白鸚〜五代目まで」

テレビ時代劇の金字塔とも言われる『鬼平犯科帳』。1969年(昭和44年)から2016年(平成…

腹減った!もう帰る!和田義盛、九州上陸を前に駄々をこねるの巻【鎌倉殿の13人】

「なぁ佐殿、いつかアンタが天下をとったら、俺を侍所の別当にしてくれよ……」「あぁ、約束しよう…

上杉景勝と関ケ原の戦い後の上杉氏

上杉謙信が1578年に急死した。何も跡継ぎのことを言わずに死亡したため、養子2人の間で後継者争いが起…

【文壇一の負けず嫌い!?】 夏目漱石の癖が強すぎるエピソード

夏目漱石と聞くと「吾輩は猫である」「草枕」「坊ちゃん」など数々の優れた文学作品を思い浮かべる方も多い…

アーカイブ

PAGE TOP