「最後の皇后」婉容(えんよう)の生い立ち

画像 : 溥儀と手を取り合う婉容 public domain
婉容(えんよう)は、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)の正室として名を残した女性である。
彼女は1906年11月13日、満洲の名門・郭布羅(グオブロー)氏の家に生まれた。父・栄源(えいげん)は清朝の高官であり、婉容は伝統と格式に彩られた環境の中で育てられた。
その名「婉容」は、三国時代の曹操の五男・曹植の『洛神賦』の一節「翩若驚鴻,婉若游龍(驚鴻のごとく舞い、游龍のごとく婉なる)」に由来する。
まさにその名のとおり、婉容は早くからその容姿と知性で周囲の注目を集めていた。
英語やフランス語の素養もあり、西洋文化にも通じていた彼女は、「西洋式の淑女」としての教養と美貌を兼ね備えた、時代の理想像そのものだった。
1912年に清朝が滅亡し、溥儀は実質的に皇帝としての権力を失っていたものの、紫禁城内では“旧皇室”としての生活を続けていた。

画像 : 紫禁城 太和殿 wiki c Dave Proffer
1922年、その形式を踏襲するかたちで行われた「皇后選び」において、婉容は選考候補として召され、最終的に正室=皇后に選ばれた。
このとき婉容は17歳。
かつての帝都・北京の紫禁城で「皇后」としての人生が始まった。
しかし、名目だけの王朝における皇后という立場は、栄華と幻想のはざまで揺れ動く、儚い夢に過ぎなかった。
皇后と側室
こうして婉容は溥儀の正室となったが、実はもうひとりの少女が宮中に迎えられている。
彼女の名は文繡(ぶんしゅう)、当時12歳だった。

画像 : 文繡(ぶんしゅう)溥儀の側室(第2夫人)public domain
モンゴル系エルデト氏の出身で、旧皇族の血を引く名門の娘であった。位階は「淑妃」、すなわち側室として婉容と同日に入内したのである。
文繡は当初、皇后候補のひとりとして名が挙がっていたが、没落した家柄を理由に正室からは外された。
だが、その清楚な美貌と利発な性格は周囲の注目を集め、若くして確かな存在感を放っていた。
宮廷における立場はあくまで婉容が上だったが、文繡の存在は婉容にとって小さくない脅威でもあった。

画像 : 清朝の正装の皇后婉容 public domain
婉容は、象徴的とはいえ皇后という立場に強い誇りを持っていた。
だからこそ、皇帝との関係を独占したいという思いも自然に芽生え、文繡に対する対抗心を抱くようになる。
しかし溥儀は感情をあまり表に出さず、文繡を特別に寵愛していたわけでもなかった。
紫禁城を追い出される
1924年、中国北部を支配していた軍閥間の抗争が激化するなか、直隷派の政権下にあった北京で、馮玉祥(ふうぎょくしょう)将軍が突如クーデターを起こした。
いわゆる「北京政変」である。
この政変により馮玉祥は政権を掌握し、その余波として、紫禁城に居住していた皇帝・溥儀にも退去命令が下された。
こうして溥儀は、正室の婉容と側室の文繡を伴い、天津の張園へと移り住むことになる。

画像 : 天津時代の溥儀と婉容 public domain
しかし、外界と隔てられた閉鎖的な生活が始まると、三人の関係にも徐々にひびが入っていく。
婉容は次第に文繡を遠ざけるようになり、二人の間の対立は表面化していった。
そして1931年、大きな転機が訪れる。
なんと、文繡が天津の張園から脱出し、裁判所に対して自ら離婚を申し立てたのである。
これは中国皇室史上初の「側室による離婚請求」であり、裁判所はこれを正式に認めた。
離婚の条件は、溥儀が文繡に慰謝料5万5千元を支払うこと、そして文繡が生涯再婚しないことだった。
この一件により、溥儀は皇帝としての体面を傷つけられたと感じた。
この文繡の離婚劇を「裏で婉容が仕組んだもの」と捉えた彼は、怒りと屈辱を抱え、婉容に対する心の扉を次第に閉ざしていった。
文繡は離婚後、廷臣らの働きかけによって「淑妃」の位を剥奪され、平民に降格。
その後、教職に就いたものの生活は次第に困窮し、1953年、北京で飢餓に近い状態でその生涯を終えた。
こうして、表向きには皇后の地位を維持した婉容だったが、夫婦の関係はすでに破綻の兆しを見せていた。
文繡の離脱は、婉容の立場を一時的に強化したように見えたものの、実際には夫・溥儀との精神的距離を決定的に広げる結果となってしまったのである。
皇后の孤独 アヘンの深淵へ
天津・張園での生活は、皇后としての婉容にとって決して安定したものではなかった。

画像 : 婉容が天津に住んでいた時の写真(天津静園で撮影)public domain
かつては互いに西洋文化への憧れを共有し、皇后としての婉容に敬意を抱いていたはずの溥儀の態度は、冷淡で無関心なものへと変化していった。
彼は、かねてより試みてきた海外亡命を断念し、「満洲国」の皇帝としての復辟を目指すようになる。
しかし婉容にとって、それは理解不能な選択だった。彼女が望んでいたのは、西洋的な自由と近代的な夫婦関係であり、封建的な玉座への執着ではなかった。
愛も信頼も薄れたその暮らしの中で、婉容は次第に精神的に追い詰められていく。
彼女は、逃避手段としてアヘンに手を出すようになる。
最初は不眠や不安を和らげるためだったとされるが、間もなく中毒症状を呈するようになり、彼女の精神と身体は急速に衰えていった。
そして溥儀は、そんな婉容の変化に対して何も行動を取らなかった。むしろ心を通わせることを諦め、彼女を見限っていくようになる。
婉容は、周囲の人々にとっても徐々に「扱いにくい存在」へと変貌していった。
やがて、婉容は溥儀の目の前からも遠ざけられるようになり、名ばかりの「皇后」は、精神的にも物理的にも孤立していったのだ。
壮絶な婉容の最期
1945年、日本の敗戦とともに満洲国は崩壊し、婉容と溥儀の虚構の帝室もついに終焉を迎えることとなる。

画像 : 満洲国皇帝を退位した記念碑 public domain
日本軍が撤退するなか、皇帝一家は逃亡を余儀なくされるが、婉容はもはや同行できる状態ではなかった。
長春の偽宮で、アヘン中毒と精神的衰弱により衰えきっていた彼女は、満洲国の崩壊とともに放置され、やがて吉林の収容施設に送られる。
そこで婉容は、ほぼ囚人同然の扱いを受けながら過ごすこととなる。
正確な記録は少ないが、彼女は極度の栄養失調と衰弱状態にあり、まともな看護や医療を受けることもなかったとされる。
彼女はボロ同然の衣服をまとい、乱れた髪のまま顔も洗わず、視力を失いかけており、自力で立つことすらできなかったという。アヘン中毒と極度の衰弱が、かつての皇后をここまで変貌させていたのである。
こうした婉容の状態について、当時の証言を残している人物がいる。
日本の華族であり、溥儀の弟・溥傑(ふけつ)に嫁いだ嵯峨浩(さが・ひろ)である。

画像 : 1938年、愛新覚羅溥傑と嵯峨浩 public domain
日本人ながら「満洲皇弟妃」として満洲国皇室に迎えられた浩は、義姉である婉容と日常的に接していた。
浩の自伝には、吉林の留置場での婉容の様子が次のように記録されている。
「皇后は終日、狂気のように叫んだり呻いたりしながら、板敷きの上を転げまわり、目を剥いて苦悶なさるようになりました。食事だけは自分で召し上がりますが、用便はもうご自分でできなくなっておられました。」
引用 : 嵯峨浩『流転の王妃の昭和史』第5章
このような婉容の姿を、監獄の看守や八路軍の幹部らが「見物」に集まる様子を見て、浩は「まるで動物園のようでやりきれない思いだった」と述べている。
もはや皇后としての威厳も、かつての美貌も見る影はなく、婉容は囚人以下の扱いのまま、静かに命を削られていった。
そして1946年、婉容はそのまま吉林で病死した。享年わずか40。
彼女の死について、正確な記録はほとんど残っていない。だが複数の証言によれば、婉容の遺体は棺にも納められず、古びた炕(かん)席にくるまれ、山中にそのまま葬られたという。
かつて「絶世の美女」と称えられ、栄華を極めた皇后は、最期は誰にも看取られることなく土に還ったのである。
おわりに

画像 : ソ連軍将校と共に東京裁判に向かう溥儀(1946年8月9日) public domain
一方、溥儀はソ連軍に捕えられ、シベリアでの収容生活を経て中華人民共和国に引き渡され、戦犯収容所に送られる。
のちに恩赦を受けて一般人として生き、映画・ラストエンペラーの原作ともなった回顧録『わが半生(我的前半生)』を著すが、そのなかで婉容への言及は少ない。
そこには、かつての皇后への感傷や悔恨よりも、「皇帝であった自分」の物語が中心に語られている。
婉容の人生は、愛を求めながらも愛に恵まれず、権威を背負いながらも守られることなく終わった。彼女が夢見た西洋式のロマンスも、皇后としての栄光も、すべては幻に過ぎなかった。
清朝という時代の終焉とともに現れ、やがて歴史の闇に消えていった一人の女性。婉容の生涯は、帝国の残響の中で今なお静かに語られ続けている。
参考 : 『清史稿』『我的前半生』『流転の王妃の昭和史』他
文 / 草の実堂編集部
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