宮廷での仕事
古代中国の封建社会において、宮廷は皇帝や后妃の他、多数の宮女や宦官が日常業務を担う場所であった。
衣食住に困ることはなく、一定の生活保障があったものの、宮女たちには「自由」が一切なく、厳しい日々を送っていたのである。
その地位の低さは、墓碑の記述に象徴されている。
唐代の宮女の墓碑には
亡宮者、不知何許人也(亡くなった宮女、どこの誰かもわからない)
と統一形式で刻まれ、名前さえも記録されることはほとんどなかったのである。
墓碑は大量生産されており、あらかじめ定型文が刻まれた上で、亡くなった日付だけを追記する形が取られていた。
生涯を通じて個人の価値が認められることはなく、死後もなお、その存在は匿名のような扱いであったのだ。
皇帝にもめったに会えない
宮女たちが皇帝に接する機会は非常に限られており、彼女たちの多くは一度も皇帝に会うことなく老い、命を終えた。
中国の歴史ドラマで描かれるような、偶然の出会いによって宮女が皇帝の寵愛を受けるといった劇的な昇進は、現実にはほとんど起こり得なかった。
宮廷入りにはさまざまな条件が課されていたが、若く美しい女性たちは、皇帝に寵愛され次期皇帝を産むことを夢見て、故郷をあとにした者も多かったであろう。
しかし、実際には皇帝の寵愛を受けられる「幸運者」になれる確率は、「スズメ」が「鳳凰」に変わるほど、限りなくゼロに近かったのである。
さらに宮女たちは自由もなく、皇帝の許しがなければ、皇宮の外に出ることすらできなかったのだ。
唐中宗の時代に起きた事件
唐の第4代皇帝であり、武則天の息子である唐中宗は、ある年の上元節(旧暦1月15日)に、宮女たちに一日の休暇を与え、宮殿の外に出て花灯を楽しむことを許可したという。(※花灯とは灯籠や灯火を楽しむ「花灯見物」のこと)
この恩恵を受けた宮女たちは、長い間待ち望んでいた外出を喜び、三々五々と皇宮を出ていった。
しかし、翌日、内政管理の官員が宮女たちの点呼を行ったところ、なんと3,000人が戻ってこなかったのである。
彼女たちは命の危険を承知のうえで、この機会を利用して逃亡したのだった。
当時の唐朝の法律では、皇宮からの無断逃亡は死刑に相当する罪であったが、それでも宮女たちは人生を取り戻すために、命懸けの決断をしたのだ。
官員たちは逃亡の原因を調査し、「淫奔」、すなわち心に決めた男性との駆け落ちであると結論づけた。
しかし、陝西師範大学の于赓哲教授は、「3,000人の宮女全員が、愛する男性との駆け落ちを企んでいたとは考えにくく、実際には多くの宮女は、ただ自由を求めて逃亡した」と推測している。
逃亡した宮女の末路
逃亡した宮女たちがその後どうなったのかは定かではないが、当時の唐朝には厳しい戸籍制度がなかったため、捕まる可能性は低かったと推測されている。
もし、逃亡先が遠隔地や人里離れた場所であれば、一生バレずに暮らせたかもしれない。
とはいえ、宮外での生活が楽であったわけではなく、特に経済面については難儀したはずである。しかし宮中の過酷な生活と比べれば、彼女たちにとっては、はるかに希望に満ちた選択だったのだ。
自由への渇望が極限まで高まり、ついには命懸けで逃亡を試みたのである。
北宋の宮女逃亡伝説
この宮女たちの逃亡は、後の時代にも影響を与えたのか、北宋の時代にも「宮女が逃亡した逸話」が残されている。
(※この逸話は、あくまで民間伝承である)
宋代初期に、一人の宮女が宮廷での厳しい生活に耐えきれず、密かに逃亡したという。
当時の皇帝であった北宋の第2代皇帝・宋太宗は、逃亡した宮女を捜索させ、まもなく捕らえて皇宮に連れ戻した。
規則では、宮廷からの逃亡は重罪であり、死刑に処されることが定められていたが、宋太宗はこの宮女をただ処刑するのではなく、別の方法で処罰を下すべきだと考え、まずは監禁した。
この提案に対して、ある側近(※劉承規という説も)が「逃亡した者は死刑という決まりがあります。もし死刑にしないなら、今後も逃亡する者が増えてしまうでしょう。やはりその宮女を処刑し、その肝臓を取り出して、見せしめにしたら良いでしょう。」と提案した。
宋太宗はこの提案に渋々同意したが、実際にはこの側近は別の策を考えていた。
側近は人を使って宮女を処刑するふりをし、彼女を遠くに逃がすことにしたのだ。
そして、市場で豚の肝臓を購入し、宮女の肝臓であるかのように見せかけて箱に収め、宋太宗に差し出した。
これを見た宮廷の宮女たちは、逃亡の代償がいかに厳しいものであるかを思い知らされ、震え上がったという。
しばらくして、側近は宋太宗に真相を明かした。
結果的には、宮女の命を救うとともに、他の宮女たちに警告を与えた一石二鳥の策となり、宋太宗はこの側近を称賛したという。
おわりに
皇宮での生活は、外から見れば豪華絢爛で魅力的に映るかもしれない。
しかし、実際には不自由と厳しい規律、さらには陰謀も渦巻く場所であった。
宮女たちの逃亡伝説は、皇宮の裏に隠された過酷な現実を象徴していると言えよう。
煌びやかに見える世界ほど陰影が強く、逃げ出したくなるほどの深い闇が存在しているのだ。
参考 : 『新唐書』『于赓哲 唐朝宫女为何在一晚逃走三千人』他
文 / 草の実堂編集部
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