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暗殺された崇峻天皇の墓はどこにある?「赤坂天王山古墳」の謎

蘇我馬子に暗殺された崇峻天皇

画像:崇峻天皇 public domain

592年(崇峻天皇5年)12月、第32代・崇峻(すしゅん)天皇は、蘇我馬子が差し向けた刺客・東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)によって暗殺された。

『日本書紀』は崇峻天皇の最期について、

(蘇我)馬子宿禰、東漢直駒をして、天皇を弑(しい)せまつらしむ

と、わずか一文で簡潔に記している。

さらに、「是の日に、天皇を倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に葬りまつる」と述べ、『古事記』にも「御陵は倉梯(くらはし)の岡の上に在り」とある。

通常、天皇が崩御すると、数年にわたって殯(もがり)を行うのが慣例であるが、崇峻天皇の場合は、暗殺当日にすぐ葬られたことになる。

また、『延喜式』には次のように記されている。

「倉梯岡陵、倉梯宮御字崇峻天皇。在大和国十市郡。無陵地幷陵戸。」

この「無陵地幷陵戸」とは、「御陵に属する土地がなく、陵戸(りょうこ/墓守)もいない」という意味である。

『延喜式』には73の天皇陵が記されているが、このような記述があるのは崇峻天皇ただ一人である。

古墳としての呈をなさない現御陵

画像 : 崇峻天皇 倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ) Saigen Jiro CC0

現在、宮内庁が治定する崇峻天皇の御陵は、奈良県桜井市大字倉橋に所在する「倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)」だ。

これは、同地に崇峻天皇の位牌を祀る金福寺が存在したことに由来し、陵地として決定されたものである。

なお、この「倉梯岡陵」が築造されたのは1889年(明治22年)のことで、それ以前には、そこから北東約2キロメートル離れた「赤坂天王山古墳」が御陵に比定され、明治時代に入ってもその伝承が守られていた。

しかし、明治政府は幕末の山陵家・北浦定政が記した『打墨縄(うちすみなわ)』の説に基づき、現在「天皇屋敷」と呼ばれる一画を新たに御陵地として治定し、「倉梯岡陵」としたのである。

画像:崇峻天皇倉梯岡上陵実測図(桜井市)

だが定政が、「己は御陵の形はなけれど、正しく御陵なるべし。」と述べるように、「倉梯岡陵」は全く古墳としての呈を成していないのだ。

宮内庁の実測図を見てもわかる通り、これを古墳として認識する人はほぼ皆無である。

崇峻天皇の真陵は「赤坂天王山古墳」

画像:赤坂天王山古墳墳丘 public domain

そこで注目されるのが、江戸時代を通じて崇峻天皇の御陵とされてきた「赤坂天王山古墳」である。

事実、この古墳を崇峻天皇の真陵に比定する見解は、現在では学界においてほぼ一致している。

ここで、「赤坂天王山古墳」の概要を紹介しよう。

●墳形:方墳(3段築成)
●墳丘規模:一辺約50m(頂上部は一辺10m前後の平坦地)
●高さ:約9.1m
●石室:横穴式石室(両袖式)
●石室規模:全長15.3m以上。玄室は幅約3.0~3.2m、高さ4.2m以上。羨道は長さ8.5m、幅1.8m、高さ約2m。
●石棺:刳抜式家形石棺(白色凝灰岩製)。長さ約2.4m、幅約1.7m、高さ1.1m。
●築造時期:6世紀末~7世紀初頭。

画像:赤坂天王山古墳の羨道(玄室方向) public domain

巨石を用いた横穴式石室や刳抜式家形石棺は、天皇家や第一級の豪族首長墓にのみ採用された形式である。

「赤坂天王山古墳」の規模を、ほぼ同時期に築造され、蘇我馬子の墓とされる「石舞台古墳」と比較すると、その価値がより明確になる。

とくに、一辺約51mの方形基壇の規模をはじめ、玄室の高さは石舞台古墳の約4.7mに対して4.3m、玄室の長さも石舞台の約11mに対して8.5mと、決して劣っていない。

画像:赤坂天王山古墳の家形石棺 public domain

これらの古墳の規模、石室・石棺の形態および年代、さらに文献に記された「倉橋」の地域的情報を総合的に考慮すれば、崇峻天皇の真陵は「赤坂天王山古墳」である可能性が最も高いといえる。

そして、同古墳は宮内庁の管理下にはないため、天皇陵の可能性が高いにも関わらず、自由に見学できる貴重な古墳となっている。

急がれる赤坂天王山古墳の本格調査

画像:赤坂天王山古墳の玄室 public domain

「赤坂天王山古墳」が崇峻天皇の真陵である可能性が高いと述べてきたが、いくつかの疑問点も残されている。

その最大のものは、「殯(もがり)」を行わずに即日葬られたとする文献の記述をどのように解釈するか、という点である。

もし「赤坂天王山古墳」を崇峻天皇が生前に築いた「寿陵(じゅりょう)」と考えるなら、この点は問題にならない。

しかし、崇峻天皇は即位から6年後に暗殺されており、その短い在位期間中に大規模な墳墓を築くことが可能だったのかという疑問が残る。

「赤坂天王山古墳」の規模から考えると、崩御後ただちに築造するのは事実上不可能である。

ただし、玄室内に残る石棺の状況から明らかなように、同古墳は完全に盗掘を受けており、副葬品などの遺物は失われている。

画像:赤坂天王山古墳の石棺内部 public domain

「赤坂天王山古墳」については、墳丘などの実測調査は行われているものの、本格的な発掘調査は未だ実施されていない。

盗掘者が石棺に開けた盗掘孔から、副葬品や遺骸を玄室外へ引きずり出したことは、状況からみて明白である。

したがって、この古墳が本当に崇峻天皇の陵墓であると確定するためには、古墳内部の発掘調査が不可欠である。

もし埋没した土砂の中から人骨や歯などが発見されれば、被葬者の実像が具体的に明らかになる可能性が高いからだ。

いずれにせよ、崇峻天皇は天皇でありながら臣下に暗殺されるという無念の死を遂げた。

生前に不運な最期を遂げたうえ、1400年を経た現在も御陵の所在に異説が残ることは、歴史の皮肉といえる。
宮内庁には、こうした状況を踏まえ、崇峻天皇の真陵について改めて静かに見つめ直す姿勢が望まれる。

※参考文献
矢澤高太郎 『天皇陵の謎』 文春新書刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

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高野晃彰

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編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」の代表。歴史・文化・旅行・鉄道・グルメ・ペットからスポーツ・ファッション・経済まで幅広い分野での執筆・撮影などを行う。また関西の歴史を深堀する「京都歴史文化研究会」「大阪歴史文化研究会」を主宰する。

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