天下の行方を決した「関ヶ原の戦い」。
この決戦の渦中にあって、ひと際激しく槍を振るい、東軍の先陣を切った武将がいた。
福島正則である。
豊臣秀吉に若くして見出された「子飼い」の将でありながら、彼は豊臣家に背を向け、徳川家康の旗のもとに立った。
その決断は、単なる感情論では片づけられない。なぜ、正則は東軍についたのか。
そこには、時代の裂け目を生き抜く武将としての、冷徹な計算と覚悟があった。
福島正則という武将

画像:福島正則像 イメージ
福島正則は、豊臣秀吉の母方の甥にあたる従弟であり、若くして秀吉に見出された武将である。
加藤清正と並ぶ「豊臣子飼い」として知られ、武勇をもって早くから頭角を現した。
天正6年(1578年)、播磨三木城攻めで初陣を飾り、天正10年(1582年)の山崎の戦いでも功を挙げた。
特に天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、一番槍・一番首の戦功を立て、賤ヶ岳七本槍の筆頭格として名を馳せる。
ここで他の七本槍が三千石の加増にとどまったのに対し、正則には五千石が与えられたことからも、その戦功の厚遇ぶりがうかがえる。
その後も紀州雑賀攻め、四国征伐、九州平定に従軍し、天正15年(1587年)には伊予今治十一万三千石余を与えられて大名となった。
家中での昇進も早く、石田三成や加藤清正ら他の子飼いの武将たちより先に大封を得ていた。
性格については、勇猛果敢で直情的、時に粗暴とも評される。
加藤清正や黒田長政とは親交が厚く、黒田長政とは兜を交換するほどの間柄だったとされる。
一方、奉行職に就いた石田三成とはそりが合わず、折に触れて不仲が取り沙汰された。
関ヶ原の戦いまでの福島正則の行動

画像 : 福島正則と仲の良かった加藤清正 public domain
秀吉の死後、正則の動きも次第に大きな転機を迎えていく。
まず知られるのが、いわゆる「石田三成襲撃事件」である。
これは慶長4年(1599年)、福島正則・加藤清正・黒田長政ら武断派の有力大名が、石田三成に対して武力行使に出た事件であった。
背景には朝鮮出兵中の補給や指揮を巡る積年の不満があったとされ、とくに蔚山城の戦いに関わった加藤清正・黒田長政らの怒りが火種となったとされる。
正則自身も文禄・慶長の役には従軍しており、朝鮮半島での経験から三成の現場感覚の乏しさには少なからず不満を抱いていたと考えられる。
この後、正則は自らの養子・福島正之を徳川家康の養女と婚姻させている。
豊臣政権下では大名間の私的な婚姻は禁じられていたが、この縁組は家康の後押しによるものであり、ここに至って正則は家康寄りの立場を明確にしていくことになる。
慶長5年(1600年)、家康の命により正則は会津征伐に従軍する。
これは石田三成が挙兵する前段階の動きであり、大谷吉継や三成の遺族ら西軍方も本来は従軍予定であった。
現地での正則の行動はごく通常の参陣であり、この段階で、両者の間に個人的な恨みの感情が強くあったとは考えにくい。
むしろ派閥として立場は対立していたものの、正則も三成も互いに私怨を抱くような関係ではなかったと見られている。
小山評定から大活躍の正則

画像:清洲城 イメージ
会津征伐の途上、石田三成挙兵の報が届くと、諸将は下野小山に集まり進退を協議した。
いわゆる「小山評定」である。
ここで福島正則が示した態度は、以後の歴史の流れを決定づけたと後世に語られている。
よく知られるのは、家康が「大坂に残してきた妻子のもとに帰るのも構わぬ」と諸将に告げると、正則が真っ先に立ち上がり「内府殿にお味方いたす」と宣言し、これに他の武将も次々と続いた、という逸話である。
これが「東軍」形成の契機となったとされ、ドラマなどでも繰り返し描かれてきた。
しかし実のところ、この劇的な場面は一次史料には確認できず、後世の創作の可能性が高いとみられている。
いずれにせよ、諸将は西へ反転し、正則の居城である清洲城が東軍の拠点となった。
ここからも、正則が東軍の中で相応の地位と発言力を有していたことがうかがえる。
一方、家康がなかなか出陣しないことに苛立った正則は「我々は捨て駒か」と怒りを露わにし、周囲の徳川家臣たちが宥める場面もあったという。『慶長年中卜斎記』
やがて家康の使者が現れ、「先に戦端を開いてくれれば出陣する」と伝えた。
正則はさっそく美濃へ進軍し、岐阜城を攻撃した。この際、池田輝政と先鋒争いを演じたと伝わる。
輝政が先に到着し攻撃を開始したことで、正則は「抜け駆けだ」と激怒し、ここでも徳川家臣が必死に取り成すこととなった。
戦となれば先鋒を争うほどの積極性を示した正則の行動は、単なる気性の激しさだけではなく、家康への忠誠心や東軍内での地位を確立しようとする意図もあったと考えられる。
関ヶ原本戦での活躍

画像:関ヶ原の戦いの福島正則陣跡 wiki c 立花左近
家康がようやく到着し、ついに関ヶ原本戦が始まる。
正則はここでも先鋒を務めることを強く望んだが、実際に先陣を切ったのは徳川家臣の井伊直政であった。
かねてから正則の感情の昂りを宥めてきた直政の抜け駆けに、正則は再び激怒したと伝わる。
開戦後、正則の軍は西軍の主力である宇喜多秀家勢と正面から激突した。
福島勢六千に対し、宇喜多勢は一万七千余ともされる(推定)。この戦いは関ヶ原本戦の中心部での激戦となった。
数で劣りながらも持ちこたえる正則の軍は、その武勇を存分に発揮したとされる。

画像 : 関ヶ原の戦い布陣図 草の実堂編集部撮影
やがて戦局は、小早川秀秋の寝返りを契機に大きく動き、西軍は総崩れとなり、東軍の勝利が決した。
正則は戦後、家康から安芸・備後二カ国、計五十万石の所領を与えられた。
これは破格の加増であり、家康が正則への処遇に特に心を砕いた様子もうかがえる。
おわりに

画像:太平記英勇伝 三十三 福島左衛門太夫正則 public domain
ここまで福島正則の動きを追ってきたが、全体を通じて積極的に東軍として戦っていたことが浮かび上がる。
加藤清正や黒田長政らが「三成憎し」の感情を抱いて東軍に加わったことから、正則も彼らに同調したと見る向きもある。
正則自身も三成を快く思っていなかったであろうが、単なる感情論だけで東軍に与したとは言い切れない面もある。
正則は行政手腕にも優れ、領国経営でも成果を挙げた実績を持つ。
性格は直情的な面が知られるものの、決して思慮に欠ける武断一辺倒の人物ではなかった。
豊臣政権内で三成の政治手腕を間近に見ていたからこそ、家康の方が今後の安定した政権運営を担えると判断していた可能性もある。
さらに、関ヶ原の開戦前に養子を家康の養女と婚姻させるなど、早い段階から徳川方との関係を強めていた点も、正則の現実的な政局観を物語っている。
福島正則は勇猛果敢な武将として語られることが多いが、その決断の裏には、家の存続と政局を見据えた冷静な計算があったと言えるだろう。
その生き様には、戦国を生き延びた武将の苦渋と、したたかさがにじんでいる。
参考:『慶長年中卜斎記』『武家事紀』他
文 / 草の実堂編集部
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