安土桃山時代

小早川秀秋は裏切り者ではなく優柔不断だった?!

関ヶ原の戦いに終止符を打つ「裏切り」を演じた小早川秀秋。この事実により、後世では「裏切り者」「小心者」といったネガティブなイメージが定着している。豊臣への恨みが原因ともいわれるが、本当にそれだけなのだろうか?

小早川秀秋の裏切りの裏側について調べてみた。

小早川秀秋 出自

小早川秀秋
※小早川秀秋

小早川秀秋(こばやかわひであき/天正10年(1582年)~慶長7年10月18日(1602年12月1日))は、羽柴秀吉の正室・高台院の甥として生まれた。天正13年(1585年)には義理の叔父である羽柴秀吉の養子になり、幼少より高台院に育てられる。

元服してからは羽柴秀俊(豊臣秀俊)と名乗り、天正16年(1588年)4月、後陽成天皇聚楽第行幸では内大臣である織田信雄以下の6大名が記した起請文の宛所が金吾殿(秀俊)とされた。金吾殿とは、秀俊の官位が「金吾中納言」だったための通称である。
またこの時には、秀吉の代理として天皇への誓いを受け取っている。

いかに秀吉の信頼が厚かったかがわかるエピソードだ。そのため、諸大名からは関白・豊臣秀次に次ぐ豊臣家の継承権保持者とも見られていた。

豊臣への恨み


※豊臣秀頼

しかし、文禄2年(1593年)、秀吉に実子である「豊臣秀頼」が生まれたことにより、秀俊の人生が狂い始める。

文禄3年(1594年)、秀吉の命により、秀俊は家臣の小早川隆景と養子縁組をさせられ、小早川秀俊となった。また、この養子縁組を機に隆景の官位、すなわち小早川家の家格や待遇が上がり、官位も中納言となって以後五大老の一角となった。

つまり秀吉、いや「豊臣家」にとっては邪魔者となり、体よくお払い箱にされたのだ。

慶長2年(1597年)2月21日に秀吉より発せられた命令により、秀俊も朝鮮半島へ渡り、釜山浦在番を命じられたが、主な任務は城の普請(建築)であった。同年6月12日、養父の小早川隆景が没する。この日以降、秀俊は朝鮮在陣中に名を秀俊から「秀秋」へ改名している。

帰国した秀秋に待っていたのは、秀吉による越前北ノ庄15万石への減封転封命令であった。隆慶一郎の小説「影武者徳川家康」では、朝鮮での戦いで女子供の首ばかりを獲り、それを嬉々として秀吉に報告したため怒りを買ったとされているが、資料によれば朝鮮滞在中の秀秋は、別段秀吉の怒りを買うようなことはしていない。

真相は不明だが、「明確な理由もなく」30万石から12万石に減封されたことだけは事実である。

寝返りの刻

小早川秀秋
※大谷吉継の錦絵

このとき、秀秋を助け、領地を回復できるよう計らったのが徳川家康であった。

家康に恩義の念を抱いて、東軍に寝返ったのは十分に考えられる。が、だったらなぜ最初から東軍に参加しなかったのかという疑問が生じる。

実は石田三成が秀秋の東軍への寝返りを予測し、秀頼が成人するまでの関白職を委ねるという慰留案を提示していたのだ。若干19歳の若者が関白になどなれるはずもないが、若いからこそ関白の地位に憧れ、三成の考えも見抜けなかった。三成にしてみれば、秀吉の秀秋に対する仕打ちを知っていたからこそ、寝返りの可能性が高いと容易に見抜けた。

結局は関白の座に魅かれ、秀秋はどちらの側に付くか迷いつつ陣を進めたとも考えられる。だが、結局は東軍に寝返り、大谷吉継の陣を急襲した。迷いを断ち切ったのは、徳川家康が松尾山に布陣したまま動かない秀秋に業を煮やし、松尾山へ向けて鉄砲隊による威嚇射撃を命じたことであった。

秀秋の裏切りは想定内だった吉継だが、ここで予想外の事態が起きる。大谷側にいた脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保の4武将までが東軍に寝返り、小早川隊に加勢したのだ。たまらず大谷隊は壊滅し、これが西軍総崩れの発端となった。

関ヶ原以後の秀秋

小早川秀秋
※大谷の祟りに怯える秀秋

秀秋がもともと東軍に付くつもりだったとすれば、本当の裏切り者は戦況を見て東軍に寝返った4人ということになる。この事実は戦後処理を見れば分かりやすい。秀秋は30万石から50万石に加増され大大名になった。もしも、秀秋が単なる裏切り者ならば、石高を倍増するほどの褒賞を家康が与えるはずがない。

では、秀秋以外の4人はどうか。
いずれも加増はないばかりか、元綱は石高を半分に減封、祐忠と直保に至ってはお家取り潰しとなっている。裏切って味方に付いた者は、いつか自分も裏切るはずと家康は考えたに違いない。

その後の秀秋は、関ヶ原での功績を家康に認められ、19歳の若さで大大名となった。しかし、徐々に精神に異常を来たすようになり、2年後に21歳で急死している。吉継が自害する際、秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。3年の間に祟りをなさん」と言い残したとされ、吉継の祟りによって死亡したという逸話が残っている。

最後に

戦国の世は裏切りの時代。そのこと自体は問題はないと考える。

しかし、豊臣への恨み、家康との密約があったにせよ、秀秋は最初から信念を貫き、態度をはっきりさせるべきだった。保身のために状況を見定め、打算的に行動してしまったために「裏切り者」のレッテルを貼られてしまったのだ。

関連記事:聚楽第
聚楽第はなぜ歴史から消えたのか?【8年間だけの幻の城】
関連記事:徳川家康
「軍師としての徳川家康について調べてみた」
徳川家康【江戸幕府初代将軍】の生涯 「徳川将軍15代シリーズ」
関連記事:石田三成
「石田三成は優秀な家臣だったのか調べてみた」

 

gunny

gunny

投稿者の記事一覧

gunny(ガニー)です。こちらでは主に歴史、軍事などについて調べています。その他、アニメ・ホビー・サブカルなど趣味だけなら幅広く活動中です。フリーでライティングを行っていますのでよろしくお願いします。
Twitter→@gunny_2017

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 豊臣秀吉はなぜ征夷大将軍ではなく関白を選んだのか?
  2. 『石田三成の最後』 東軍武将たちは処刑前にどんな言葉をかけたのか…
  3. 仙石秀久について調べてみた【人気漫画センゴクの主人公】
  4. 関ケ原の戦い以降の長宗我部氏と土佐について
  5. 織田信長の人物像 「信長の身長、性格、趣味」〜 戦国三英傑の逸話…
  6. 【後北条家は滅んではいなかった】 北条氏直 〜秀吉に許された北条…
  7. 金森長近 【信長、秀吉、家康に仕え85才まで生きた赤母衣衆】
  8. 立花道雪・生涯無敗の雷神【武田信玄も対面を希望した戦の天才】

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

人から鬼となった酒吞童子伝説 「リアル鬼滅の刃~鬼と鬼殺隊は実在した?」

『鬼滅の刃』は、人を喰う鬼を滅ぼすために集められた剣士集団「鬼殺隊」による鬼退治の話であるが…

曹操を悩ませた魏の後継者選び【万能な曹丕か天才の曹植か】

魏の世継ぎ問題三国志ではいくつもの世継ぎ争いが起きて勢力を混乱、更には滅亡に陥れている。…

宣教師ルイス・フロイスが見た織田信長 「信長の印象は強烈だった」

『どうする家康』では、今川義元の首をくくりつけた槍をぶん投げた織田信長。「なかぬなら 殺…

14歳前後のインカのミイラ【氷の乙女】 生贄として神に捧げられた少女たち

インカ帝国は、現在のペルー、ボリビアのチチカカ湖周辺、エクアドル辺りを中心に、15世紀半ばか…

本当は嘘?「男脳・女脳」は非科学的

バラエティ番組や、1998年に超ベストセラーとなった書籍『話を聞かない男、地図が読めない女』ですっか…

アーカイブ

PAGE TOP