父兄と織田・豊臣に臣従
今日では世界遺産にも認定されて多くの観光客が訪れている姫路城ですが、この城を今の状態に整備したのが池田輝政(いけだ てるまさ)です。
輝政は、永禄7年(1564年)に織田信長の重臣・池田恒興の次男として生まれた武将で、長兄は元介と言い、父と兄の3人で織田氏に仕えました。
輝政は摂津を治めていた荒木村重が信長に対して謀反を起こすと、村重の居城・有岡城攻めに従軍し、天正8年(1580年)の花熊城の戦いにおいて、荒木軍の武者5~6名を討ち取る武功を挙げ、信長から感状を受けたとされています。
天正10年(1582年)6月に本能寺の変によって信長が明智光秀に討たれると、父・兄と共に豊臣秀吉に従い、同年10月に秀吉が自らを織田の有力後継者であることをアピールするために行った京都大徳寺での信長の葬儀では、輝政は羽柴秀勝と共にその棺を担だとも伝えられています。
家康との縁
天正11年(1583年)に父・恒興が美濃大垣城主となると、輝政自身も池尻城主を務めました。
続く天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいて、父・恒興と兄・元助が双方とも討死したことから家督を継ぎ、美濃大垣城主13万石を領することになりました。続いて翌年、天正13年(1585年)には13万石の岐阜城主となりました。
その後も秀吉の下で多くの合戦に従軍し、天正18年(1590年)9月の奥州仕置き後には、三河の中の渥美・宝飯・八名・設楽4郡(東三河)の15万2,000石を領して吉田城主となりました。
その後の朝鮮出兵では、国内に留められた豊臣秀次付きとされたようで渡海はせず、戦に用いられた船や兵糧米の管理などの輜重任務を命じられました。
その後、輝政の運命を左右することになったのが文禄3年(1594年)、秀吉が仲介した徳川家康の娘・督姫(とくひめ)の婚儀でした。
輝政は正室とは何らかの事情で別れており、督姫は「継室」であったと記録されています。
姫路の大大名へ
督姫との婚儀で家康との距離を縮めていた輝政は、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没すると、それまで以上に家康への傾斜を強めました。
一方で福島正則・加藤清正ら豊臣政権の武断派の諸将と共に、文治派の石田三成らとは対立を深めていきめました。
この状況は、慶長4年(1599年)五大老の重鎮・前田利家が死去したことで、輝政を含む武断派七将のによる三成の襲撃事件へと発展しました。
輝政は、慶長5年(1600年)に向かえた関ヶ原の戦いにおいては、緒戦の岐阜城攻略で福島正則と共に功を挙げました。
その後の本戦では、毛利秀元や吉川広家ら南宮山に布陣した西軍への抑えとなって武功は挙げられませんでした。
しかし、戦後には岐阜城攻略の功を評されて播磨姫路52万石へと加増・移封されることになり、初代姫路藩主となりました。
輝政の知行高は、この当時全国で八番目に位置するものであり、加えて12月には従四位下・右近衛権少将の官位も叙任されました。
徳川氏一門以外の大名が少将以上に叙せられたのは、前年の福島正則に次ぐもので、徳川政権初頭における高い政治的役割を担うものであったと言えます。
姫路城の整備
輝政は、慶長6年(1601年)から慶長14年(1609年)に、今も残る天守閣などを含めた姫路城の大規模な整備を行いました。
慶長11年(1606年)からは加古川の流域の改修工事にも着手し、上流にある田高川も含めた河川開発や下流にある高砂の都市開発を積極的に推進し、城下町としての姫路の整備事業を進めました。
慶長17年(1612年)には、正三位参議と、同時に松平姓を許されて「松平播磨宰相」と称されることになりました。
徳川幕府において、徳川一門ではない大名の中で参議へと任官されたのは、このときの輝政が初でした。
また、次男・忠継は備前岡山藩28万石、三男・忠雄は淡路洲本藩6万石、弟・長吉は因幡鳥取藩6万石を領しており、これらを合わせるた領地は、一族で計92万石にも及ぶものとなりました。
当初は秀吉が仲介した徳川家との縁組がきっかけでしたが、この縁組によって輝政は池田家を大大名とし、明治まで続く池田家の繁栄の礎を築きました。
織田家に仕えた重臣の中でも最も栄えた一族が池田家であったと言えるのではないでしょうか。
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