偉大な父を持つ 織田信忠
世界中で有名な戦国武将、織田信長には後継と呼ぶに相応しい息子がいた。
その人物の名前は織田信忠(おだのぶただ)。信長の嫡男である。
偉大なる父に認められた信忠は、父の背中を追う中でどのような生涯を歩んできたのだろうか。今回はそちらにスポットライトを当ててみたいと思う。
幼名は奇妙丸
信忠は弘治元年(1555)または同年3年(1557)に信長の長男として生まれる。母親は帰蝶(濃姫)ではなく側室の生駒吉野(いこまきつの)である。
幼名は奇妙丸(きみょうまる)と呼ばれており、その由来は生まれた時に顔が奇妙だったからであり、信長の奇抜さが窺える。幼少期から信長の後継として育てられた信忠は、雑用を一切させられることのない厚遇や、幼少の頃から戦に連れて行かれ戦いを学んだ。
この頃はまだ織田家は国力が弱かったので、国力のある武田家と同盟関係を結ぶべく動いていた。その手始めとして信長は自身の養女、龍勝院を武田信玄の四男である武田勝頼に嫁がせ同盟を成立させるが、程なくして龍勝院は亡くなってしまう。そのため同盟関係を持続させるために11歳だった信忠を信玄の五女にあたる松姫と婚姻関係を結ぶこととなった。
両家の関係は友好的であったが、信玄が信長と同盟を結んでいた徳川家康の領地に侵攻すると、次第に両家の関係は雲行きが怪しくなり始める。
信忠と松姫は婚約はしているものの会ったことは一度もなく、文通や贈り物のやりとりしかしていなかった。元亀3年(1572)になり、足利義昭が信長包囲網を敷くと信玄もそれに従い信長の領地に侵攻し始める。それにより同盟関係は破棄され、2人は会うことのないまま婚約破棄となってしまうのだった。
織田信忠 家督継承
元亀3年(1572)に信忠は元服したが、翌年になるまで幼名で呼ばれていた。
元服以後は軍を率いて本願寺との石山合戦や武田家との岩村城の戦い、長島一向一揆と信長に従い、各地を転戦した。尚、長島一向一揆で信忠は織田本隊とは違う陣に属し遊撃隊として動いていた。このことから信忠は単独で軍事行動をする軍団を率いることができると信長が判断できるくらい豊富な経験と多彩な軍略、将としての器が備わっていたと考えることができる。
その後の天正3年(1575)の長篠の戦いでは勝利し、そのままの勢いで前回落とすことの出来なかった岩村城攻略を任されている。武田軍は不利な状況のためか夜襲を仕掛けるが、それを撃退し、城主の秋山虎繁(あきやまとらしげ)を降伏させたことにより、岩村城を織田家のものにする功績を挙げる。
岩村城を含めて今までの功績が認められてか、同年には信長より家督を譲られ東美濃と尾張国の支配権を任され、信長の正室である帰蝶を養母として岐阜城の城主となった。家督を譲ったことにより信長は「天下人」、信忠は「織田家当主」と明確に分けられることになる。
甲州征伐の総大将として
家督を譲られた信忠は天正5年(1577)に雑賀攻めを敢行し、雑賀孫一を降伏させる。同年には裏切った松永久秀を討伐するため信忠自らが総大将となり、明智光秀や豊臣秀吉を率い久秀のいる信貴山城を落とし久秀を討伐した(信貴山城の戦い)。
織田家の中国攻めでは秀吉を救援するため総大将として出向き、三木城の攻略を支援した。この頃から戦の主導権は信長ではなく信忠に渡っていることがわかる。
また、天正9年(1581)の京都御馬揃え(信長が京都で行った大規模な軍事パレード)が行われた時は織田家の中での序列は第一位であったが、その少し前には信長とは違って異常なほどの能楽好きであることが災いし、国を乱すということで能道具を取り上げられ謹慎させられたりしている。
天正10年(1582)の甲州征伐では総大将を任され5万を率い家康と北条氏政と共に武田領へ侵攻する。信忠は飯田城・高遠城と武田家の城を次々に攻略し、武田勝頼を追い詰める。信忠の進撃は凄まじく早く、信長の本隊が到着する前に勝頼を天目山の戦いで自害させ、武田家を滅亡させている。
これには信長もべた褒めで天下を譲る意志を示し、武才を称賛している。
本能寺の変
同年6月2日には本能寺の変が勃発。信忠は信長と共に秀吉の救援をするため京都の妙覚寺で宿泊していた。
本能寺にいる信長の救援に向かうが、すでに自害の知らせをうけ皇太子の誠仁親王(さねひとしんのう)のいる二条御所へ向かった。信忠は誠仁親王を逃がすと籠城戦を開始した。明智軍に対して数名しかいないながらも有利に戦いを運んでいたが、伊勢貞興(いせさだおき)が攻め入ると勝てないと見込んで父と同様に自害し、20代後半で生涯を終えた。
この時に信忠は八王子に落ち延びていた松姫に迎えの使者を送り妙覚寺に招こうとしていたが、信忠が自害してしまったため2人は生涯一度も会うことは出来なかった。
最後に
信長の後継としてのプレッシャーをものともせずに突き進んでいたが、これからの所で生涯を終えた信忠。
戦国時代は信忠のような潔い人物に兎に角厳しい時代だったと感じる。なんとかして京都を脱出し、落ち延びることができていれば織田家の再興と松姫との邂逅は出来たのかもしれないと思うと、惜しい人物を早々に無くしたと思わざるを得ない。
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彼が本能寺の変で命を落とさなかったら、その後の歴史がどうなったか。秀吉や諸侯は信忠に従って光秀を討っただろうし、秀吉や家康が天下人になることも無かったかもしれない。信長ほどではないにせよ、十分な才覚を持っていた信忠が天下人になってたら、どんな日本になっていたか、興味は尽きないですね
本能寺で信長と一緒に亡くなってしまったのは本当に残念です。
それとあの秀吉と光秀を率いていたっていうのも、よく考えたらすごいですね。
松姫とは互いに行為を抱いていた節がありますが、その兄の仁科盛信に対しても再三降伏勧告を出していますね。
義兄として、生かして幕僚に加えたかったのかと思います。
また信忠は二条城を落ち延びようと考えていたが、叔父の有楽斎長益が自害を進めたという説も。
尤も、当の長益はちゃっかり逃げ延びていますが・・・
信忠のこういった行動を見ていると性格も良さそうですね。素直に自害してしまった点も含め。