安土桃山時代

賤ケ岳七本槍の武将は実は9人だった【豊臣の猛将たち】

賤ヶ岳七本槍とは

賤ヶ岳七本槍とは

※『賤ヶ嶽大合戦の図』 賤ヶ岳の戦いの錦絵。

羽柴秀吉柴田勝家の間におきた織田信長亡き後の覇権争いの戦となったのが賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)だ。

この戦に勝利した秀吉が、武功を立てた若き武将を褒め称えて内外に知らしめるたのが「賤ヶ岳七本槍」なのだ。

ここでは七本槍の意味、賤ケ岳の戦い、七本槍の武将、七本槍のその後、そして実は7人ではなく9人いたことを解説する。

七本槍とは

元々七本槍とは、合戦で槍によって功名を立てた七人のことを指す。

七本槍と褒め称えられたのは、小豆坂七本槍・蟹江七本槍・賤ヶ岳七本槍・上田七本槍・高鍋七本槍・日本槍柱七本の6回である。

天文11年(1542年)三河の今川氏・松平氏連合と尾張の織田氏との間の小豆坂の戦いで、功名を挙げた七人の織田家家臣の武将を称えたのが始まりだ。

小豆坂七本槍織田信光・織田信房・岡田重能・佐々政次・佐々孫介・中野一安・下方貞清の七人。

蟹江七本槍は、弘治元年(1555年)蟹江城攻めに活躍した松平広忠の家臣の大久保忠員・大久保忠俊・大久保忠世・大久保忠佐・杉浦鎮貞・杉浦鎮栄の七人。

賤ヶ岳七本槍は、天正11年(1583年)賤ケ岳の戦いで活躍した羽柴秀吉軍の加藤清正・福島正則・加藤義明・脇坂安治・片桐且元・糟屋武則・平野長泰の七人。

上田七本槍は、慶長5年(1600年)上田合戦で活躍した徳川家臣の中山照守・斧忠明・辻久吉・鎮目惟明・戸田光正・斎藤信吉・朝倉宣正の七人。

高鍋の七本槍は、慶長5年(1600年)大垣城の戦いで活躍した秋月家家臣の内田四郎右衛門・内田仁右衛門・大坪甚右衛門・河崎善兵衛・矢野掃部・柏崎善右衛門・石井善右衛門の七人。

日本槍柱七本は、豊臣秀吉によって槍働きや大名の支柱重臣として称賛された小野鎮幸・本多忠勝・島津忠恒・後藤基次(又兵衛)・直江兼続・飯田直景(覚兵衛)・吉川広家の七人。

秀吉が称えた、日本槍柱七本を除く実際の戦で武功を挙げた武将は全員で35人、名のある武将の下で働く何万人の兵士の中の七人だから相当の活躍をしたと思われる。

賤ケ岳の戦いとは

賤ヶ岳七本槍とは

※賤ヶ岳山頂と余呉湖 wikiより

天正10年(1582年)6月2日未明におきた本能寺の変で織田信長と嫡男・信忠が死去した。

謀反を起こした明智光秀に対し羽柴秀吉が中国大返しを行い、山崎の合戦で主君の仇を討ったことにより織田家家中のパワーバランスが崩れた。

筆頭家老の柴田勝家は上杉の足止めで動けず、全国各地や近畿にいた武将は自らの判断で決められず、最初に行動を起こした秀吉は織田家での立場が強くなった。

織田家の後継者問題と遺領を話し合う清須会議において、秀吉が推す亡き信忠の嫡男で信長の孫・三法師が織田家の正統な後継者となる。
遺領も秀吉が数多く獲得、しかも信長の葬儀を筆頭家老の勝家を差し置いて秀吉が仕切った。

このようなことが続き両者の確執・対立は深まり、両者は天正11年(1583年)賤ヶ岳付近(現在の滋賀県長浜市)で激しい戦を繰り広げる。

壮絶な戦いの末、柴田側の前田利家の戦線離脱を皮切りに勝家側は劣勢になり、とうとう勝家は越前・北ノ庄城に退却して、最後には正室お市の方と自害するのだ。

賤ケ岳の七本槍の武将は実は9人だった

この戦で武功を挙げた小姓上がりの近習、馬廻りの若武者、秀吉子飼いの者たちが戦いの後に秀吉から「一番槍」として称えられ、感状と恩賞を受け取った七人が賤ヶ岳七本槍である。

七本槍の七人は、加藤清正・福島正則・加藤嘉明・脇坂安治・片桐且元・糟屋武則・平野長泰の七人であるが実は9人だったとされる。

残りの2人は石河兵助桜井佐吉

賤ヶ岳七本槍とは

石河平助(石川一光)wikiより

石河兵助(石川一光)は秀吉の家臣ではなく弟の秀長の家臣で、しかも兵助は武功を上げたものの賤ヶ岳で戦死した。代わりに弟が秀吉から感状と恩賞として丹波に3千石を与えられた。

もう一人の桜井佐吉は秀吉の養子・秀勝の家臣で賤ヶ岳の戦いの負傷がもとで数年後に亡くなるが、その前に秀吉から感状と1千石が与えられた。

加藤清正は、合戦当時22歳で秀吉とは親戚関係で、幼少より小姓として仕え通称・虎之助と可愛がられていた。
賤ヶ岳の戦いでは山路正国を討ち取り恩賞として3千石を与えられるが、福島正則より2千石も少ないことを不服として異議を申し立てた強者だ。

福島正則は、合戦当時23歳で秀吉の親戚でもあったため、幼少より小姓として仕え可愛がられていた。
賤ヶ岳の戦いでは退却する拝郷五左衛門の隊を先駆けて追い討ちし、恩賞として最も多い5千石を与えられた。

加藤嘉明は、当時21歳で父は徳川家康に仕えていたが対立して秀吉に仕えた。
元々嘉明は秀吉の養子・秀勝の近侍だったが、秀吉の播磨出兵に独断で従軍し北政所から叱られるも、そんな血気盛んな所を秀吉に可愛がられた。
賤ケ岳の戦いでは紫の母衣張を背負って奮戦し、3千石を与えられた。

脇坂安治は、当時30歳。近江出身で浅井長政の家臣から明智光秀の与力になり、自ら望んで秀吉の家臣になった。
賤ケ岳の戦いでは柳ケ瀬で柴田勝家の従弟・勝政を討ち取り山城に3千石を与えられた。

片桐且元は、当時28歳。近江出身で浅井長政の家臣から秀吉に仕えた。
賤ケ岳の戦いでは銀の切割柄絃の指物を差して奮闘し、摂津国内に3千石を与えられた。

糟屋武則は、当時22歳。三木城主・別所長治から播磨攻めを受け、黒田官兵衛の推挙で秀吉の小姓になった。
賤ケ岳の戦いでは佐久間盛政配下の宿屋七左衛門を討ち取り、播磨・河内に3千石を与えられた。

平野長泰は、当時25歳。幼い時から秀吉に仕官して、賤ケ岳の戦いでは河内に3千石を与えられた。

彼らの他にも石田三成大谷吉継・一柳直盛など羽柴家の若者14人も、最前線で武功を挙げたとされている。

彼らの活躍でその後、秀吉の天下取りは大きく進んでいくことになる。

七本槍のその後

賤ヶ岳七本槍とは

※関ヶ原の戦い wikiより

七本槍の七人は、秀吉の天下取りを補佐し、それぞれが順調に出世するが秀吉没後の関ヶ原の戦いで運命が分かれる。

加藤清正は、賤ケ岳の戦いの後、主計頭となり肥後半国19万5千石を領して熊本藩主になり、朝鮮出兵では先鋒として働くが朝鮮との講和条件で石田三成との対立を深める。
関ヶ原では徳川につくが参戦はせずに、肥後国内の乱を平定し家康から肥後54万石を与えられる。
家康と豊臣秀頼の二条城会見に従い豊臣家の危機を救ったが、その帰船途中で病になり亡くなった。

福島正則は、賤ケ岳の戦いの後も小牧長久手の戦い・和泉畠中城攻めで武功を挙げ伊予国11万石の領主になる。
関ヶ原では東軍の先鋒として大活躍して家康から安芸・備後49万8千石を与えられる。

加藤嘉明は、賤ケ岳の戦いの後も九州征伐・小田原攻め・朝鮮出兵で武功を挙げて伊予10万石領主になり、関ヶ原では東軍につき家康から伊予松山25万石を与えられ、その後合津城40万石の領主となった。

片桐且元は、秀頼の後見となり、関ヶ原では家康と秀頼の関係に奔走する。
大阪の陣の元になった方広寺鐘銘事件で家康にとりなしに行くも、大阪城開城を主張して淀殿の怒りを買い徳川に寝返り、大阪の陣後、家康から4万石を与えられるが秀頼の没後20日で病死した。

糟屋武則は、賤ケ岳の戦いの後、順調に出世して播磨加古川1万2千石の領主になり、関ヶ原では石田三成の西軍に属して廃絶となる。

平野長泰は、賤ケ岳の戦いの後も武功を挙げ、慶長3年(1598年)豊臣姓を賜るも家康につき、関ヶ原では東軍についた。その後大坂の陣では豊臣方に戻ろうとするが許されず、江戸居留守役を命じられる。子孫も幕府の旗本として仕えた。

おわりに

豊臣秀吉は農民の出であったために、譜代の有力な家臣がいなかった。
軍師の竹中半兵衛・黒田官兵衛と側近の蜂須賀小六は秀吉が依頼して連れて来た有能な人物なのだ。

天下取りを目指す秀吉にとって子飼いの若い武将を「賤ケ岳の七本槍」と過大に宣伝して、天下に武勇を知らしめるために使ったのかもしれない。
彼らはそれに応えて互いに切磋琢磨し、関ヶ原の戦いの前には家康の最強の敵集団「豊臣恩顧の大名」になっていくのだ。

関ヶ原の戦いの前に「石田三成憎し」の気持ちをうまく利用した家康に、彼らのほとんどは傾き家康の天下取りを手伝ってしまう。

徳川幕府は彼らを恐れ外様大名として江戸から遠い場所に国替えをして、武家諸法度・参勤交代・徳川の城づくりなどありとあらゆる手を使って彼らの力を削いだ。

豊臣家滅亡の大阪冬・夏の陣を彼らはどういう想いで戦っていたのだろう。

 

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