増田長盛とは
増田長盛(ましたながもり)は豊臣政権の五奉行の一人で、石田三成らと共に秀吉の天下取りを支えた武将である。
出生や出身地、若い頃の経歴が不明で実は甲賀忍者として活躍していたとも、一向宗徒であったとも言われる人物だ。
五奉行と言えば石田三成のように、武功ではなく政策面や財政面などを取り仕切るイメージがあるが、増田長盛は戦場での武功もあり文武両道の武将であったという。
豊臣政権を支えた知勇兼備の武将・増田長盛について追っていく。
秀吉の家臣
増田長盛は天文14年(1545年)に生まれたとされている。
長盛の生誕や若い頃の資料がなく、生まれた地域は尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市増田町)と近江国浅井郡益田郷(現在の滋賀県長浜市益田町)の2つの説がある。
長盛が史実に登場するのは、天正元年(1573年)28歳の時に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に200石で召し抱えられた頃である。
これ以前の経歴は明らかにはされてはいない。
一説には一向宗徒であったとか、六角氏の家臣であったとか、本能寺の変の後に徳川家康の伊賀越えを手引きしたなどの諸説がある。
正室には織田信長の重臣・森可成の娘を迎い入れ、二人の間には天正8年(1580年)嫡男・盛次が生まれている。
森家から正室を迎えているので、もうこの頃には秀吉の重臣になっていたとされる。
立身出世
天正5年(1577年)秀吉の中国攻めに長盛も従軍し、天正9年(1581年)の鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」に命じられている。
天正10年(1582年)本能寺の変の後には、秀吉と共に中国大返しを成功させて、奏者(主君に奏事伝達を行う役職)として上杉景勝と外交交渉を務めている。
天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは先陣を任され、兜首を2つ取るという武功を挙げて秀吉から2万石に加増されている。
天正13年(1585年)紀州攻めでは大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍し、根来衆を討ち取るという武功を挙げて、従五位下・右衛門尉に叙任されている。
天正15年(1587年)の九州平定や、天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍している。
北条滅亡後の下野国・常陸国・安房国の諸大名と豊臣政権との取次を任せられ、太閤検地を長束正家や石田三成と共に行う。
京の三条大橋や五条大橋の改修工事も行うなど奉行として中心的な役割を担い、近江国水口岡山城主となり6万石を与えられている。
五奉行となる
秀吉が朝鮮へ出兵した文禄の役では、宇都宮・里見・成田らの関東の諸大名の軍勢を率いて、石田三成や大谷吉継と共に朝鮮の漢城に駐留している。
ここでの役目は秀吉の戦略の意を諸将に徹底させることと、戦局を秀吉に報告することを行いながら戦場でも戦っている。
文禄4年(1595年)長盛は大和国郡山20万石の領主となり、城の周囲に総堀を巡らす大規模工事を行い、紀伊や和泉の豊臣の直轄地の管理も任せられるなど内政面でも豊臣政権を支える。
これらの功績が認められて慶長3年(1598年)には石田三成・浅野長政・長束正家・前田玄以と共に五奉行となる。
石田三成は主に行政を担当、浅野長政は主に司法を担当、長束正家は主に財政を担当、前田玄以は宗教を担当して、増田長盛は主に土木を担当した。
しかし、実際には三成・長政と共に主に政策全般を行っていた。
慶長の役では福島正則・石田三成と共に出征軍の大将になることが決定していたが、秀吉が亡くなってこの話はなくなった。
関ヶ原の戦い
秀吉の死後、徳川家康が諸大名と姻戚関係を結び、長盛ら五奉行は前田利家を立ててこれに反発する。
しかし、頼みの利家が亡くなると、石田三成が加藤清正らに襲撃事件を起こされて、家康が仲裁に入り三成は蟄居されてしまう。
慶長3年(1600年)家康が会津征伐に出陣すると、長盛は三成と共に毛利輝元と宇喜多秀家を立てて挙兵する。
関ヶ原の戦いの前哨戦ともいえる伏見城攻めや大津城攻めで活躍するも、ここで長盛は家康の重臣・永井直勝と内通して三成の挙兵を知らせ、三成の資金援助要請を拒んでいる。
負けた時のための保身工作なのか真相は未だに分かっていないが、三成が蟄居した後に長盛は豊臣家の蔵入地100万石を一括管理していた。
しかし、三成の資金援助要請を渋り、その資金や人員を西軍に使わせなかった。
家康の裏工作なのか、同年9月15日の関ヶ原の戦いにも長盛は参加せず、毛利輝元と共に3,000の兵を率いて大坂城で防衛体制を敷いている。
関ヶ原の本戦には家臣・高田小左衛門に兵をつけて派遣した。
だが戦には参加させずにただその場で待機として、大坂城の様子を家康に知らせていたとされる。この情報は関ケ原の勝敗を左右するほど重要なものであった。
三成ら西軍が負けると、長盛は出家し家康に謝罪して許しを請う。情報を送っていた長盛は命だけは助けられて改易となり高野山に追放されてしまう。
大坂の陣
高野山では岩槻城主・高力清長の預かりとなる。
慶長19年(1614年)8月には徳川と豊臣の対立が深まり、長盛は高力清長を通して家康から「そなたは秀頼公からの恩が深く行く末が心配であろう。大坂に行ってお側にいると良い」と言われたという。これはつまり「豊臣秀頼の側につき情報を逐一報告せよ」といったスパイ任務の依頼であった。
しかし、長盛はこれは断った。今までどっちつかずの長盛であったが豊臣家への恩も深く、さすがに秀頼を完全に裏切る行為はできなかったと思われる。
大坂冬の陣では、長盛の息子・盛次は尾張藩主・徳川義直に仕えていたために徳川方として戦った。
しかし、盛次の本心は豊臣にあったために主君・義直と父・長盛に了解を得た上で尾張から出奔して、大坂夏の陣では豊臣方として奮戦して討死している。
戦後、盛次の大坂城入りを咎められた長盛は責任を問われ、元和元年(1615年)5月27日に自害を命じられた。享年71歳であった。
おわりに
関ヶ原の戦いで、増田長盛が石田三成の資金援助要請を断らずに西軍のために尽力していれば、豊臣家の滅亡は避けられたのではないかともされている。
なぜ長盛がどっちつかずの状態になってしまったのかは、北条滅亡後の東国政策に関わった時に家康と親しくなったことも大きな要因と言えるが、家康の武将としての実力も熟知していたからではないかと考えられる。
大坂城に一緒にいて動かなかった毛利輝元は外様大名として生き残ったが、長盛は態度を明確にしなかったのか、出来なかったのか、中途半端な決断が運命を分けたと言える。
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