権力者が欲しがった香木
戦国の覇王・織田信長や、時の権力者がこぞって欲しがった「蘭奢待(らんじゃたい)」という香木(こうぼく)がある。
信長が朝倉・浅井家を滅ぼし遂に権力の頂点に立った時、正親町天皇(おおぎまちてんのう)に所望したのが「蘭奢待」であった。
室町幕府第3代将軍・足利義満、第6代将軍・義教、第8代将軍・義政、それから110年振りに信長は「蘭奢待」は切り取った(※香木の一部を切り取って燃やし香りを楽しむ)
信長は歴代将軍と肩を並べることにより、事実上天皇からも「それに値する武将」だと認められたことになり、その権勢を広く世間に知らしめることになった。
天皇の許しがなければ拝観することすらできなかった東大寺正倉院の宝物・天下の名香「蘭奢待」について解説する。
蘭奢待とは
蘭奢待(らんじゃたい)とは、奈良県東大寺正倉院に保存されている全長1.5m、最大直径43cm、重量11.6kgにも及ぶ、日本最大の香木(こうぼく)のことである。
正倉院宝物目禄での名は黄熟香(おうじゅくこう)である。平城京の仏教文化を創った聖武天皇の崩御後、光明皇后により東大寺に奉献された聖武天皇遺愛の品々の一つではないかとされている。
東南アジアで産出される沈香(じんこう)と呼ばれる高級な香木で、樹脂化しておらず、香としての質に劣る中心部は鑿(ノミ)で削られて中空になっている。
その香は「古めきしずか」と言われ、紅沈香と並び権力者に重宝された。
その出自、伝来については詳しいことは分かってはおらず、聖武天皇の代に中国から渡来したと伝わるが諸説ある。
聖徳太子伝暦の推古天皇3年(595年)に中国から渡来したという説、中国の呉からの献上品であるという説、弘法大師空海が中国から持ち帰ったという説など様々あるが、実際の渡来は10世紀以降とする説が有力である。
「蘭奢待」という名は雅名で、それぞれの文字「蘭」「奢」「待」を良く見ると「東」「大」「寺」、「東大寺」という文字が隠れており、東大寺の別名とも言われている。
また、「蘭奢待」と呼ばれるようになったのは足利義満の時代からで「猛々しく奢った侍が必ず欲しがる」ためだとも言われている。
この香木が正倉院に納められた当初はさほど有名ではなかったが、「正倉院に素晴らしい香木がある」という話が長い年月をかけて世間に広がった。
歴代の天皇や将軍たちは手柄のあった者にこの香木を切り取って与えたことから、この香木を持つことが時の権力者にとってのステータスとなり、やがて「蘭奢待を持つ者=天下人」であるという風潮が生まれていった。
これまで足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武、織田信長、明治天皇ら、時の権力者が切り取り、その切り取った場所には付箋が残されているという。
「蘭奢待」の現在の重さは11.6kgだが、東大寺正倉院に奉献された当初は13kg程度はあったとされている。
近年の調査研究で38か所切り取られた跡があり、切り口の濃淡から切り取られた時代にかなりの幅があり、同じ場所からも切り取られていることもあるため、これまでに50回以上は切り取られたと推定されている。
権力者以外に、採取した現地の人や日本に移送する時に手にした人たち、管理していた東大寺の関係者などによって切り取られた箇所もある。
沈香は、ジンチョウゲ科の樹木が傷ついたり、害虫に食われたり、風雨のさらされることに対する生体防衛反応として樹脂が分泌されたもので、1,000年以上の年月を経てようやく採取できるという。
中でも質の良い物は伽羅(きゃら)と呼ばれ、現代においては金の5倍以上の価格で取引されている貴重品である。
聖武天皇が手にしてから約1,200年が経過した明治10年に、明治天皇が奈良御幸の際に正倉院を訪れて「蘭奢待」を切り取ってその一片を焚いた。
明治天皇はこの香りを「薫烟芳芬(くんえんほうふん)」と表現し、昔と変わらずに良い香りがしたという。
織田信長と蘭奢待
信長が正親町天皇に所望し許しを得て「蘭奢待」を切り取ったのは、天正2年(1574年)3月28日のことである。
当初、正親町天皇は「そんなことをすれば聖武天皇の怒りが天道にまで響く」と怒りを顕わにしたが、最終的には許さざるを得なかった。
「信長公記」によると、信長は正倉院から「蘭奢待」を6尺の長持ちに納めて多聞山城に持ち帰り、御成の間の舞台に置いて家臣たちに「末代までの物語に拝見しておけ」と披露したという。
そして過去の例にならって、足利義政の切り取った跡の横1寸8分(約5.5cm)ほどを切り取った。(※東大寺側の記録では3cm四方×2個)
足利義政が切り取って以来、110年間幾人もの足利将軍家が希望しても叶わなかったことから、信長はたいそう名誉に感じたという。
しかし、一説には信長の前に美濃の守護の座を争った土岐頼武が斎藤道三に追放された時、再起を図るため権威を示そうと朝廷に少ない献金をして切り取りを許されたという説もある。
信長からすれば、天下は足利将軍家から自分に移ったという証となり、切り取った「蘭奢待」の一片を正親町天皇に献上し、天皇はその一部を元関白の九条稙通(くじょうたねみち)に贈った。
そこに添付された手紙には「蘭奢待の香り近きは伏せられ候。このたび不慮に勅封をひらかれ」とあり、強引な信長の要請に応じざるを得なかった無念が綴られている。
また、毛利輝元にもその一部を贈ったという、これも不快感の表れだとされている。
信長は「蘭奢待」を持ち帰り、名物香炉を持っていた千利休と津田宗及の2人の茶人を招き、相国寺で茶会を催して2人に「蘭奢待」の小片を与えたという。
信長によって「蘭奢待」は世間の人たちに広く知れ渡ったのである。
源頼政と蘭奢待
平安時代の末期、第76代・近衛天皇が毎晩何かに怯えてうなされるようになった。
それ以前の第73代・堀河天皇の頃にも同様のことがあり、その時は源氏の棟梁・源義家が弓の弦を3度鳴らして病魔を退散させたという。
そこで先例に習い、近衛天皇に憑いた病魔を退散させるために白羽の矢が立ったのが、武勇の誉れ高い源頼政(みなもとのよりまさ)であった。
ある晩、頼政が御所の庭を見回っていると頭上に黒雲が立ち込め、頭は猿、胴は狸、尾は蛇の怪物「鵺(ぬえ)」が現れた。
頼政が鵺に向かって矢を放つと見事に的中し、待ち構えていた頼政の家臣・猪早太(いのはやた)が太刀でとどめを刺した。
鵺退治の褒美として近衛天皇は頼政に「獅子王(ししおう)」という太刀を下賜した。その時に「蘭奢待」も与えたという逸話がある。
頼政が賜った「蘭奢待」は太田道灌(おおたどうかん)の手に渡り、江戸時代の初めに第2代将軍・徳川秀忠の娘・東福門院和子が所有した。
その後、香道の流派である志野流のもとにあったが、宝暦4年(1754年)に尾張徳川家に献上されて、現在名古屋にある「徳川美術館」には頼政から伝承された「蘭奢待」の一部が所蔵されている。
徳川家康と蘭奢待
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長7年(1602年)6月10日に東大寺に奉行の本多正純と大久保長安を派遣し、正倉院宝庫の調査を実施した。
「蘭奢待」の現物の確認をしたが、切り取ると不幸があるという言い伝え(信長の本能寺の変)から、家康は切り取ることはしなかったと伝わっている。
「麒麟がくる」での染谷将太の信長の蘭奢待の回怪奇的な演技をしていたことをこの記事を読んで納得しました。
らんじゃたいと言ったら今お笑いコンビ、冗談じゃないよ、これですよ。