織田信長は、日本の歴史において革新的かつ過激な行動で知られた戦国武将である。
信長の過激な行動として最も有名なのは、1571年(元亀2年)に行われた「比叡山の焼き討ち」であろう。
そのため、信長は仏教勢力を敵視していたというイメージが強い。
本記事では、信長と仏教勢力の関係について詳しく探る。
比叡山延暦寺の焼き討ちの背景
織田信長が1571年(元亀2年)に行った天台宗の総本山である「延暦寺の焼き討ち」は、彼の残虐さを象徴する出来事として広く知られている。
しかし、最近の発掘調査によると、織田軍が焼き討ちしたのは延暦寺の総本堂「根本中堂」と「大講堂」のみであり、他の主要建物は織田軍の攻撃以前に既に焼失していた可能性があるという。
「土層から確認出来る焼土は、織田軍の焼き討ち以前のものだ」とする意見があるのだ。
これは、一体どういう事か?
実は、「比叡山焼き討ち」は、信長だけが行ったのではない。
1499年(明応8年)、室町幕府の三管領の一つである細川氏の跡取り、細川政元も比叡山を攻めていたのだ。
政元が比叡山を攻撃したのは、10代将軍足利義稙(義尹)を追放した※明応の政変に端を発している。(※細川政元が日野富子と共に起こした、室町幕府将軍の擁廃立事件)
義稙は京都から逃げ延び、延暦寺も彼を支持していたため、政元は延暦寺を攻撃し、主要建造物を焼き討ちにしたのだ。
この時、延暦寺の主要建造物である根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼は、全て焼失している。
つまり、約70年後に織田軍が焼き討ちを行った際には、まだ延暦寺の主要建物はさほど再建されておらず、存在していなかった可能性もあるのだ。
なぜ信長は、延暦寺と対立したか?
信長が延暦寺と対立した理由には、以下の三つが挙げられる。
・寺領の横取り
信長は延暦寺の寺領を横領していた。
天台座主の応胤法親王が朝廷に働きかけ、寺領回復を求める綸旨を出したものの、信長はこれに従わなかったため、対立が激化した。
・延暦寺の軍事拠点化
延暦寺は軍事的に重要な拠点であった。比叡山は京都と北陸を結ぶ交通の要衝に位置しており、ここを抑えることが京都支配に不可欠だった。延暦寺の僧兵は強力な武装勢力であり、数万の兵を抱えることができる軍事基地となっていた。信長は、これを無力化することで自身の戦略的優位を確保しようとした。
・敵対勢力との結びつき
延暦寺は、浅井氏や朝倉氏など信長に敵対する勢力と結びついていた。これらの勢力は、一時期比叡山に立て籠もり、信長に対抗した。
信長は、延暦寺が寺院の本業を逸脱し、世俗に介入し続けることに対し、強い懸念を抱いていた。そこで、延暦寺を無力化するために攻撃を決断した。
信長は仏教勢力に厳しい対応をしていたのか?
足利義昭を15代将軍に擁立し、京都に入った織田信長が寺社に対してどのような対応を取ったのか、見ていきたい。
1569年(永禄12年)に信長が定めた掟には、寺社本来の所領保護が含まれていた。
これに基づき、畿内(奈良県、京都府の南部、大阪府の大部分、兵庫県の南東部)の寺社本領を承認する命令書が下され、多くの寺院や神社にその記録が残っている。
つまり、信長は室町幕府が行っていた寺社処遇を踏襲していたのだ。
安土宗論
信長の宗教に対する考え方を知る手がかりとして「安土宗論」がある。
1579年(天正7年)、安土城下の浄厳院で浄土宗と法華宗との宗義論争が行われた。「宗論」とは宗義上の討論または論争を意味し、権力者の前で行われ、判定が下されるものである。
「安土宗論」のきっかけは、浄土宗の長老が安土で説法中、法華宗信徒二人が議論を挑んできたことに始まる。
長老は「法華宗の僧侶を連れてくれば答える」と返答し、法華宗も宗論の準備を進めた。
信長は、宗論の前に双方に和解を勧めたが、浄土宗側は従ったものの、法華宗側はこれを拒否したため「安土宗論」が行われたのだ。
信長の判定は浄土宗側の勝利であり、法華宗には今後宗論を行わないよう誓約させた。
この「安土宗論」に出席した法華宗僧・日淵の日記には、信長の考えが記されている。その内容は次の通りである。
・他人を攻撃するから法華宗の考え方を誉める者はいない。
・教えを広めるだけに満足せず、他人を攻撃するから憎まれる。
・他人を攻撃するのは、欲が深いからである。
これらの言葉から、信長は他人を攻撃する宗教勢力に対して批判的であり、仏教徒でありながら欲深い者を嫌っていたことが分かる。
また、信長はキリスト教を擁護し支援したことでも有名であるが、宣教師であるフロイスやロレンソ了斎たちとも何度も宗教論議をしていたり、宣教師と仏教徒との宗論にも出席している。
つまり信長は、宗教(仏教)自体を嫌っていたわけではなく、きちんと説法にも耳を傾け宗論にも参加し、諸宗教を問わず宗教者として優れた者を理性的に判断できる度量があったのだ。そして政治的に利用できるところは利用した。
仏教を笠に武装し、富を蓄え多くの城や土地を持ち、政敵となるに至っていた俗物化した仏教勢力を嫌っていたといえるだろう。
終わりに
法華宗僧・日淵の日記に記された信長の言葉は、攻撃的な印象が強い信長像とは異なるものであり、次の時代を先取りする重みがある。
戦乱から平和へ進む時代のうねりを知る、先駆者たる感覚だったのかもしれない。
信長の未来図に適合する平和的な仏教勢力は保護され、自分の富や権力を守るために他者を攻撃する寺院は打撃を受けた。
信長は仏教勢力を敵視したのではなく、彼に敵対し攻撃してきた仏教勢力を排除したのである。
参考図書:
日本の中世「戦国乱世を生きる力」
完訳フロイス日本史
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