「どうする家康」で “いや~な感じ” が評判の立川談春さん演じる佐久間信盛(さくまのぶもり)。
織田家の重臣として約30年、信長に仕え多くの武勲をたてたにもかかわらず、晩年、突如として信長から追放されてしまいます。
なぜ佐久間信盛は信長に見放されたのでしょうか。
今回は、信盛追放の理由を紐解いてみたいと思います。
佐久間信盛とは
佐久間信盛は、尾張国愛知郡の生まれ。生年は大永8年(1528)とされており、天文3年(1534)生まれの織田信長より6歳年上です。
信盛は、信長が「吉法師」と名乗っていた幼少の頃より仕え、信長・信勝兄弟の家督争いから起きた「稲生の戦い」(いのうのたたかい)では信長方として参戦しました。
桶狭間の戦いでは、その活躍ぶりから鳴海城(なるみじょう)を与えられ、信長から重用されるようになります。信盛は、「姉川の戦い」や「長篠の戦い」など主だった合戦のほとんどに従軍し、武功を立てていきました。
「木綿藤吉、米五郎三、かかれ柴田に退き(のき)佐久間」
これは『翁草』に書かれた信長時代の流行小唄の一節です。
信盛は部隊が退却するとき最後尾を担う「殿」(しんがり)軍の指揮を得意としていたことから”退き佐久間” と称されています。
ちなみに、“木綿藤吉”は、木綿のように何にでも使える便利な人物である藤吉郎秀吉、“米五郎三”は、米のように身近になくてはならない人物である丹羽五郎左衛門長秀、“かかれ柴田”は、合戦の先鋒として優れた人物である柴田勝家という意味があります。
信長の台頭とともに、佐久間信盛は織田家の筆頭家老として大役を任されていきました。
信長からの信頼も厚く、柴田勝家とともに織田軍の両翼を務め、天正3年に勝家が越前に封じられ翌年から北陸攻めへと動くと、信盛も大坂攻めを任され本願寺の包囲戦を開始します。
しかし足掛け5年、織田家中で最大規模の軍団を率いていたにもかかわらず戦果をあげることができず、信長から咎めを受け、高野山に追放されてしまいます。
この時、信長は自ら筆をとり、19条に及ぶ折檻状(せっかんじょう)を信盛父子に突き付けました。
19条の折檻状
天正8年(1580)、信長は正親町天皇(おおぎまちてんのう)の仲介で宿敵本願寺と和睦しました。
10年に渡る戦いが終わり無事に本願寺を掌握できると思った矢先、乱妨取り(らんぼうどり : 戦後に兵が人や物を掠奪する行為)による簒奪が起きて本願寺は炎に包まれてしまいます。
信長は、数多くの伽藍が焼け落ちた無惨な様子を見て、ふつふつと怒りがわいてきたのでしょう。そもそも圧勝ではなく和睦というのも腹立たしかったに違いありません。
こうして信長は、すぐさま本願寺攻めの総督である信盛父子に自筆の19条の折檻状を送りつけたのです。
折檻状には、次のようなことがしたためられていました。
“5年間も本願寺を攻囲しながら、これといった功績を挙げていない。積極的に攻めることもなければ、計略を巡らせるわけでもない。黙って待っていれば相手は僧侶だから、信長を恐れてそのうち降参するだろうとでも思ったのか。”
“どうしていいのか分からなければ相談に来ればいいものを、5年間一度も状況を報告に来ていない。これは怠慢である。”
“特別待遇で7か国の与力を与えられているのだから、どんな戦にも負けるはずがないだろう。”
“明智光秀や羽柴秀吉、池田恒興(いけだ つねおき)、柴田勝家は各方面でめざましい働きをしているのに、なぜ信盛は目立つ活躍ができなかったのか。”
こうした本願寺攻めでの失態についての譴責の他に、信長は信盛の過去のしくじりについても言及しています。
“三方ヶ原の戦いに家康の援軍として参戦したにもかかわらず、特に手柄を上げていない。それどころか、平手汎秀(ひらて ひろひで)を見殺しにした挙句、信盛とその家臣はみな無傷で帰還している”
また、過去に信盛は、信長に対して口答えをしたことがありました。
天正元年(1573)、一乗谷城の戦いで朝倉軍が撤退をはじめたとき、信盛を含めた武将たちは追撃に出遅れるという失態を演じてしまいます。
信長の叱責に、柴田勝家・滝川一益・丹羽長秀・羽柴秀吉らが陳謝したのに対し、信盛は「そのように仰せられても、我々ほどの家臣を持つことは中々できないのではないでしょうか」と涙ながらに抗弁して信長を激怒させていたのです。
このことも信長は忘れていませんでした。折檻状で激しく罵っています。
“朝倉攻めの時には、失態を謝罪するどころか自分の武功を誇って口ごたえし、さらには席を立って(信長の)面目を失わせた。あの時あんなに偉そうなことを言っておきながら、今回このような不首尾な結果に終わったのは、前代未聞のことである”
その他にも信盛の子・信栄への辛辣な評価や「そもそも欲が深く蓄財に走り家臣を大切にしないからダメなのだ」といった信盛の武将としての能力の無さの指摘などがあり、最後に「もういちど討ち死にする覚悟で働くか、頭をまるめて高野山に行くか決めろ」と締めくくられていました。
30年の長きにわたって信長を支え続けた佐久間信盛の選択は後者でした。
信盛父子は、織田家を去って高野山へ向かったのです。
信長の政治的な意図による追放
天正8年は、信長政権にとって大坂石山本願寺や一向一揆の平定など、長きにわたる戦いが一段落した年でした。
信長は政権が安定したこの機会に、大きな所領を持ち地位が高いだけで役に立たない者を一掃し、家臣団の整備をしようと考えたのでしょう。佐久間信盛に続いて、林秀貞(はやし ひでさだ)、安藤守就(あんどう もりなり)丹羽氏勝(にわ うじかつ)ら老臣も追放しています。
信盛は大坂方面軍の司令官として、三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊の7ヶ国にわたる大軍団を率いていましたが、追放によって大坂方面軍は消滅。
軍団は再編成され、羽柴秀吉の中国方面軍と明智光秀の幾内方面軍が大軍団として整備されました。
また、信盛・林秀貞の尾張と美濃の大身・安藤守就の軍と所領は、尾張・美濃に基盤を持つ信長の嫡男・信忠に付属され、軍団と所領拡張がなされました。
近江南部にあった信盛の所領2郡は、美濃や尾張と京都を結ぶ交通の要衝であり、政治的にも経済的にも重要な地域でした。追放の前年に完成した安土城のお膝元でもあり、この2郡は信盛の追放後、信長の直領となります。さらに信長は、直臣団の強化のため近江衆も召し抱えています。
佐久間信盛の追放は、政治的な理由によって意図的に行われたリストラだったのかもしれません。
佐久間信盛の最後
信盛父子は取るものもとりあえず高野山へと登って行きました。
しかし追及は厳しく高野山すら追われ、『信長公記』には、「紀伊熊野の奥、足に任せて逐電」したとあります。
追放の翌年天正9年(天正10年という説もあり)、信盛は大和国十津川で亡くなりました。病死説や、盗賊あるいは高野聖に殺されたという説、さらに湯治の最中、崖から足を滑らせ転落して亡くなったという説もあります。
信栄は、信盛の死後、天正10年(1582)に赦免され、織田信忠の家臣となりますが、本能寺の変により主を失い、織田信雄に仕えます。
しかし、小牧・長久手の戦いで蟹江城落城という失態を演じた後は第一線を退き、茶人として秀吉に召し抱えられました。
大坂の陣後は、御噺衆として二代将軍・徳川秀忠に仕え、寛永8年(1632)76歳でその生涯を閉じました。
参考文献:谷口克広『信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・謀反』
この記事へのコメントはありません。