戦国時代は裏切り、騙し討ち、下剋上などがオンパレードの世界であった。
以前、ここでも裏切りの代名詞とされる人物たちを紹介したが、
【義理人情なし!】 すぐに裏切る『ギリワン』戦国武将4人衆とは
https://kusanomido.com/study/history/japan/sengoku/75589/
今回は視点を変えて、裏切られた側の人物に焦点を当てていきたい。
戦国時代において最も裏切られた人物とは誰なのだろうか?
その筆頭は、織田信長である。
信長は桶狭間の戦い以前の小勢力だった頃から、弟の信成(信行)や筆頭家老だった林秀貞に裏切られている。
最後は明智光秀の裏切りによって生涯を閉じており、信長の人生は最初から最後まで裏切られることの連続だったと言えよう。
ここでは改めて、信長がどれだけ裏切られてきたのかについて掘り下げていきたい。
織田信長は、どれだけ裏切られた?
ここでは、信長を裏切った著名な人物を簡潔に紹介していこう。
・織田信成(信行)
1556年8月に信長の直轄地を横領し、本格的に信長と敵対して稲生原で激突するが敗れる。その後、母・土田御前の執り成しで許されたが再度謀叛を計画し、最終的に柴田勝家に密告されて信長に謀殺される。
・林秀貞
弟の美作守とともに信成側に寝返った、後に許されて筆頭家老の地位を保ったが、1580年8月の大坂本願寺攻めの怠慢などを糾弾されて、佐久間信盛らと共に追放される。
・浅井長政
信長の妹のお市の婿となったが、朝倉討伐のタイミングで裏切り、最終的に自害に追い込まれた。
・松永久秀
1571年頃、足利義昭が信長と敵対的になったタイミングで反信長の動きを見せたが、多聞山城を差し出して許される。しかし、1577年8月に本願寺攻囲の陣を解いて信貴山城に籠城したことで明確に裏切る。
・荒木村重
摂津の有力国人・池田勝正の一家臣だったが、信長に忠義を示して摂津の支配者にまで上りつめる。しかし、1578年10月に突然裏切り、徹底抗戦した後に毛利氏のもとに亡命した。
・足利義昭
信長の力を借りて室町幕府の第15代将軍に就任したが、最終的には敵対し挙兵した。その後、京都を追放されて流浪の旅をすることになる、
・別所長治
信長を裏切ったが詳細は不明。別所氏は早くから信長に従っていたが、一説には叔父の吉親が信長や秀吉に不信を抱いていたとも、毛利家や足利義昭らの離反工作によるものとも言われている。最終的には兵糧攻めに屈して切腹した。
・波多野秀治
丹波国の武将である波多野秀治は、信長が足利義昭を奉じて上洛した頃に味方になるが、1575年に突如裏切り明智光秀の軍を撃退する。最終的には光秀の兵糧攻めに敗れて捕らえられ、処刑された。
・明智光秀
言わずと知れた三日天下の人。本能寺の変で信長を討ったが秀吉に敗れる。
他には、武田方に寝返った信長の叔母・岩村殿も有名であるが、織田や武田の策略に振り回された結果、織田家を裏切る形になってしまったと判断して入れなかった。
また、信長の死後に後継者たちを廃して天下をとった秀吉も、ある意味裏切り者といえるが、信長の生前には忠誠を尽くしていたため排除した。
探せばまだまだ出てきそうだが、今回は特に有名な人物たちを紹介した。
なぜここまで裏切られたのか?
信長がここまで裏切られた理由について明確な定説はないが、多くの推論がある。
その多くは信長の人物像から推測されたものである。
・実は優しく甘い一面があった。
・ワンマン経営者気質で部下の話を全く聞かなかった。
・信長包囲網など苦しい状況が多く、旗色が悪いと見られた。
・革新的すぎる考え方についていけなかった。
・短気すぎてついて行けなくなった。
・不器用すぎてうまく意見を伝えられなかった。
どれも当てはまりそうであり、上記の説が複合的に絡みあったとも考えられる。
また、毛利家のように調略に優れた相手の場合は、策に引っかかってしまった例もあるだろう。
「戦国の覇王」といったイメージが強い信長だが、「裏切られたこと」に関しても戦国時代を象徴するような存在だったのだ。
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