『織田信長の死後に、豊臣秀吉が天下をとって関白になった』という歴史は、多くの方が知っている。
『秀吉の後の関白の座は、甥の秀次が引き継いだ』となると、少し歴史に詳しい方ならば知っているはずだ。
しかし、『秀次切腹後の関白はどうなったのか』となると、歴史に詳しい人でも知らない人が多いのではないだろうか。
今回は、秀吉→秀次の後の関白について分かりやすく解説する。
戦国時代の関白の変遷を見る
「関白」とは、簡単に言えば天皇を補佐する官職で、実質的な公家の最高位である。
秀吉は初の武家出身の関白であった。
全ての関白の変遷をたどると膨大な量になるので、ここでは1500年代中頃から江戸時代初期までの関白を取り挙げる。
近衛稙家(1536年12月13日~1542年3月11日)
鷹司忠冬(1542年4月11日~1545年7月10日)
一条房通(1545年7月10日~1549年1月25日)
二条晴良(1549年1月25日~1553年2月2日)
一条兼冬(1553年2月4日~1554年3月4日)
近衛前久(1554年4月3日~1568年12月)
二条晴良(1569年1月3日~1578年5月10日)
九条兼孝(1579年1月10日~1581年5月31日)
一条内基(1581年5月31日~1585年1月)
二条昭実(1585年3月13日~1585年8月6日)
豊臣秀吉(1585年8月6日~1592年2月10日)
豊臣秀次(1592年2月10日~1595年8月13日)
空位
九条兼孝(1601年1月23日~1604年12月30日)
近衛信尹(1605年9月6日~1606年12月10日)
鷹司信房(1606年12月10日~1609年1月30日)
九条忠栄(1609年1月30日~1612年8月21日)
鷹司信尚(1612年8月21日~1615年9月19日)
ここから見えてくることがいくつかある。
まず、関白は一条家や二条家、近衛家といったいわゆる公家(公卿)が務めるのが常であった。
鎌倉中期以降は、五摂家(近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家)による持ち回り制度となり、見知った名字が関白になるのが恒例であった。
そんな中、突然登場したのが秀吉であり、公家の中に割り込んでいることがわかる。
さらに驚きなのが、秀次の後に関白が空位になっていることだろう。
空位になった後は1579年に関白を務めた九条兼孝に戻っているが、一体何があったのだろうか。
秀次後の関白は秀頼だった?
前述したように、秀吉の後に関白となったのは秀次である。
秀次は、秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男であり、秀吉の甥である。
しかし、秀次が謀反を疑われて切腹してしまったことで(※秀次事件)、関白が任官者なしの状態になったのだ。
この切腹騒動が起こった理由には様々な説があり、秀吉が秀頼に関白を継がせるためだったという説もあるが、真相は不明である。
とにかく関白・秀次が1595年に急に没してしまったことで、6年間もの空白期間が生まれることとなった。
この空白期間にも理由がある。
秀吉は、関白を武家である豊臣家による世襲とし、征夷大将軍に代わる「武家の棟梁」と位置づけ、全国の公家と武士を統率しようと考えていた。(武家関白制)
しかし秀吉の死後、後継者である秀頼が幼すぎたため、成人するまでは関白を置かない方針となった。
その後、徳川家康が野心を見せて台頭してきたことで、関白は再び五摂家が持ち回ることになるのである。
家康が『武家関白制』を破壊し、関白秀頼は幻に
秀吉による『武家関白制』が続けば、秀頼が関白になるはずであった。
関白の移り変わりの空白箇所をもう一度見てほしい。
豊臣秀吉(1585年8月6日~1592年2月10日)
豊臣秀次(1592年2月10日~1595年8月13日)
空位
九条兼孝(1601年1月23日~1604年12月30日)
この関白空位期間で、歴史の大きな転換期となる事変が起こっている。
関ヶ原の戦いである。
1600年に発生した関ヶ原の戦いで、家康率いる東軍が勝利すると、天下の形勢は一気に徳川家へと傾いた。
そして家康は、1579年〜1581年に関白を務めていた五摂家の九条兼孝を、再び関白に就任させたのだ。
これは事実上の『武家関白制』の破壊である。
それでも当初は、秀頼が関白になるためのつなぎという見方はあったようだ。
なぜなら1605年になると秀頼が右大臣に就任し、関白になるための昇進路線に乗っていたためである。
しかし、この頃の朝廷や家康は豊臣排除に動いており、人事を調整し、右大臣の秀頼を飛び越える形で鷹司信房を関白とした。
その後、大坂の陣にて豊臣家は滅亡し、武家官位と公家官位は切り離され、秀吉が夢見た武家による関白体制は完全に消滅したのである。
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