石田三成は、豊臣秀吉の死後、徳川家康と対立し、関ヶ原の戦いで西軍を率いたが敗北を喫した。
その後、逃亡した三成は東軍に捕えられ、敵陣の真っ只中であった大津城に連行され、門前に晒されることになる。
そこで、東軍の面々と顔を合わせることになった。
東軍の武将たちは、捕えられた三成にどんな言葉をかけ、三成はどんな言葉を返したのだろうか。
三成と彼らとのやり取りは、『常山紀談』や『武功雑記』などに見られる。ただし、これらの逸話には伝承色が強いものも含まれており、必ずしもすべてが史実であるとは限らないことを前置きとしておく。
目次
逃亡する三成を捕縛した「田中吉政」
三成を捕縛したのは、同郷の近江(滋賀県)出身の田中吉政(たなか よしまさ)であった。
彼が三成を発見できたのは、三成が逃亡した近江に土地勘があったためである。
二人は昔から親しい間柄であったことから、捕縛後も気安く会話を交わしたという。
捕縛される際、三成は「他の者よりは、お前に捕らえられた方がいい」という旨の発言をしたとされる。
吉政は三成に対し、「数万の大軍を率いたのは、知略に優れていた証であろう」と称賛の言葉をかけた。
これに対して三成は「秀頼公のため、亡き太閤殿下に報いるために挙兵したが、天運がなかった」と応じたという。『※武功雑記』
三成は、吉政に手厚くもてなされた礼として、秀吉から賜った脇差しを授けた。
後に吉政は、これらの功績により筑後柳川32万石を与えられ、国持大名となった。
厳しい言葉をかけた「本多正純」
本多正純(ほんだ まさずみ)は、後に家康が幕府を開くと側近として重用された武将である。
父の本多正信は、家康の頭脳として知られているが、関ヶ原の戦いでは徳川秀忠とともに遅参していた。
正純は、三成に対して「軽々しく挙兵したものだ。敗れても自害もせず捕まったのは、貴殿らしくもない」と、少し嫌味とも取れる言葉をかけたという。
それに対し、三成は「潔く自害などするのは身分が低い侍のすること。源頼朝公の心境など、貴殿にはわかるまい」と、強気な言葉を返したとされる。『※常山紀談』
三成を心底嫌っていた「福島正則」
福島正則は、三成と同じ豊臣子飼いの武将の一人である。お互いよく知った間柄だったが、頭脳派の三成と、武闘派の正則ではとにかく気が合わなかった。
関ヶ原の戦いが起こる前には、正則たち七将が三成の命を狙うという「三成襲撃事件」も起きている。
正則は、豪快な性格であった。
門前に晒された三成に「無益な戦を起こしてこのようなザマか。なぜ潔く切腹しなかった」と、厳しい言葉をかけた。
三成は「英雄は最後の瞬間まで生き抜き、機会を窺うものである。お前を生け取り、縛れなかったのもまた天運なり」と返した。『※武功雑記』
最後の最後まで、二人が水と油であったことが伝わる問答である。
小早川秀秋の裏切りを画策した「黒田長政」
黒田孝高は、朝鮮出兵で三成と対立していた過去があり、長政も三成のことを良く思っておらず、「三成襲撃事件」では七将の一人として参加している。
長政は、「関ヶ原の戦い」の勝敗を大きく左右した、小早川秀秋の東軍への裏切り工作の中心人物だったことでも知られている。
しかし長政は、意外にも三成に対して同情的であったという。
長政は「勝敗は天運とはいえ、ご無念であろう」と声をかけ、着ていた羽織を三成にそっとかけてやった。
三成はこの時、言葉を失い黙り込んでしまったとされる。『※武功雑記』
四将の裏切り工作を行っていた「藤堂高虎」
関ヶ原の合戦では、小早川秀秋が裏切ったあと、続けて四人の武将が裏切っている。その武将たちは、裏切りの気配を見せる小早川の対策のために大谷吉継が配置していた武将だったが、その采配は失敗に終わった。
なぜ四将は裏切ったのか。それは藤堂高虎が内応工作を仕掛けていたためである。高虎は裏切った四将や小早川秀秋と共に西軍を追い込み、東軍の勝利に大きく貢献した。
三成に対して、高虎は礼儀正しく馬から降り「敵方から見て、戦場での我が軍をどう思われたかを教えていただきたい」と尋ねたとされる。
それに対して三成は「兵卒の動きを良くするために、鉄砲隊には身分のあるものを登用した方がよい」と答えたという。『※秘覚集』
黒田長政や藤堂高虎など、内応工作を行っていた武将はどこか罪悪感があったのであろうか、なぜか三成に優しかったようである。
三成から罵声を浴びせられた「小早川秀秋」
関ヶ原の戦いにおいて、当初、小早川秀秋は西軍として参加していた。
しかしギリギリまで西軍の使者に会おうとはせず、病気だと偽るなど不審な動きを見せていた。大谷吉継はその態度を疑い、秀秋と三成の間に布陣し、いつ秀秋が裏切っても対応できるように備えていたほどである。
秀秋は、何度出陣の合図が出ても動こうとはせず、ようやく動いたと思いきや仲間であるはずの西軍を攻撃。
大谷軍は劣勢の中で何度も押し返すなど奮戦したが、前述した四将の裏切りにより押し込まれ、ついに吉継は自害。
そのまま西軍は敗れてしまった。
秀秋は、細川忠興に止められたにもかかわらず、捕縛されている三成を見に行ったという。
三成は秀秋の姿を見ると「老奸に加担し、義を捨て、人を欺いて裏切ったのは武将の恥。末代まで嘲られるだろう!」と怒りを露わにしたとされている。『※武功雑記』
三成を丁重に扱った「徳川家康」
東軍の総大将・徳川家康は、三成とは複雑な関係である。
豊臣秀吉の死後、天下取りのために動き出した家康と、それを牽制しようとする三成の関係があった。
一方で「三成襲撃事件」の際は家康が仲裁に入っており、当初は必ずしも関係が悪かったわけではなさそうだ。
東軍総大将である家康は、三成に対して丁重に接したとされる。
家康は、「武将として戦に敗れることは昔からあること。何ら恥じることではない」と声をかけた。
それに対して三成は「ただ、天運によりこうなったまで。早く首を刎ねていただきたい」と答えたという。『※常山紀談』
おわりに
その後、三成は京都市中を引き回され、六条河原で斬首された。享年41。
処刑の直前にも有名な逸話がある。
三成は、喉が渇いたため水を求めたが、警備兵は「柿でもかじって我慢しろ」と冷たく返した。
これに対して三成は「柿は痰の毒になるからいらぬ」と断った。
この発言に兵たちは「処刑される身で、今さら健康を気にして何になるのだ」と笑ったが、三成は毅然と「そなたたちのような小物には分かるまいが、大義を思う者は、首を刎ねられる瞬間まで命を大切にするものだ」と答えたという。
石田三成は、最後まで己の志を曲げることなく生き抜いた武将であり、その信念は彼の最期にも表れていたのである。
参考:『常山紀談』『武功雑記』『歴史道』他
文 / 草の実堂編集部
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