慶応4年(1868年)8月23日、若松城を望む飯盛山において19名の若い命が散った。
会津藩のために戦い、傷付き、選ばずとも良い道を選んでしまった若者たち。「白虎隊(びゃこたい)」と呼ばれる彼らはなぜ自害することになったのか。
白虎隊の真実を調べてみた。
会津藩の誇り
※保科正之
徳川の天下となり40年ほど後のこと、陸奥会津藩の藩主となったのは3代将軍家光の異母弟であると共に、信頼厚き忠臣でもある保科正之(ほしなまさゆき)だった。やがて保科家は、徳川家の分家である松平性を名乗ることとなり、9代藩主・松平容保(まつだいらかたもり)の時代まで続く。
幕府というより、徳川家に対しての忠義に厚い歴代藩主に違わず、容保もまた徳川家のために生きることを誇りとし、藩内の武士や領民にもその覚悟を説いてきた。しかし、幕末の京都に血の匂いが流れ始めると、京都守護職となり配下の新撰組共々、京の治安維持に務める。
だが、その心意気とは裏腹に、京都守護職就任にともなう臨時支出は約22万両にもなった。当時の会津藩における会津・江戸での年間経常支出が約12万両だったので、この金額はまさに藩を潰しかねない支出である。
戊辰戦争勃発
※若松城
容保が藩の財政を立て直す間もなく、鳥羽伏見の戦いにより戊辰戦争の幕が上がる。いや、この時にはすでに藩の財政は破綻寸前であり、再建どころではなかった。そのため、京都守護職拝命においても病を理由に再三固辞したのだが、実のところは「押し付けられた」形で就任したというのが事実である。
将軍家への忠誠と藩の財政を秤に掛けねばならない容保の心中はいかほどだったか。
話を戻すが、当時の会津藩は「徳川家への忠誠」を説く一方で、領民には苛酷な税を課しており、恨まれこそすれ、徳川に忠誠を誓うのは武士ばかりの有様だった。戊辰戦争が勃発してからは武士と領民との温度差がさらに鮮明になる。
鳥羽伏見の雪辱を晴らすべく、会津で決着をつけようという会津藩士に対し、重税に苦しめられた挙句に戦うことを命じられた領民たちの士気は低かった。
白虎隊 出陣
※白虎隊像(福島県・会津若松市)
いよいよ新政府軍が会津へと迫る中、会津藩家老・西郷頼母(さいごうたのも)は、どう見ても勝てぬ戦と悟り、松平容保に降伏を進言するが、容保は徹底抗戦の構えを崩すことはなく、西郷の言葉は聞き入れられぬまま新政府軍との戦いが始まった。
会津藩は、鳥羽伏見の戦いの後、軍の体制をフランス式に変え、精神論ではなく戦力を重視するようになる。
部隊も年齢により、50歳以上の「玄武隊(げんぶたい)」、36歳~49歳までの「青龍隊(せいりゅうたい)」、18歳~35歳までの「朱雀隊(すざくたい)」に分けられ、15~17歳の武士の子供たちで編成された「白虎隊」も組織された。
本来の投入計画では、朱雀隊を主力として、青龍隊には国境を守らせ、玄武隊と白虎隊は予備兵力となる予定だったが、戦況の悪化に伴い白虎隊にも前線への出撃命令が下される。彼らは、幼い頃より集団で行動をとり、主君に対する忠誠を徹底して教育されてきた武士の子ばかりである。新政府軍より劣る武器を手に、最前線へ駆り出されたときも疑問などなかったことだろう。
だが、敵の圧倒的な数に対しては多少の少年兵が加わったところで意味などない。すぐに撤退を余儀なくされ、白虎隊も一番隊は松平容保の警護の任に就くが、二番隊は負傷者を出していたため、郊外の飯盛山へと退避することとなる。
仕組まれた悲劇
※飯盛山の自刃の地から見る鶴ヶ城。
遂に新政府軍は、若松城下へと侵攻してきた。
当時、若松とその近郊には約3万戸の家々ったが、うち約2万戸が武士の家である。あらゆるものがこの生活を維持するために充当されたり、重税を課せられていたことが領民に恨まれる原因だったのだ。
それらの家々を見下ろすことが出来る飯盛山に落ち延びた20人の白虎隊隊士は、その光景に息を呑む。城下のあちこちから火の手が上がり、若松城周辺にも火災が迫っていた。もはや、会津軍に勝ち目がないのは明白である。20人は決意を固めて自刃し、うち1人が一命を取り留めるも、ここで白虎隊の悲劇が生まれた。
自刃に至る理由については、
「市中の煙を見た隊士が、城が落ちたと勘違いして先走った」
「城に戻り戦うか、玉砕覚悟で敵陣に挑むか意見が割れたが、どちらにせよ会津は負けた。ならば最後は武士らしく腹を切るべきとして」
というのが良く知られた説である。
しかし、これは「仕組まれた悲劇」であった。
武士の悪あがき
そもそも、江戸の無血開城がされた時点で、会津藩の敗北は決まっていた。
何しろ、最高司令官がいないのだ。
装備は旧式、資金もない。
それでも戦ったのは「武士の誇り」、ではなく「武士の悪あがき」であった。
もし、新政府軍に負け、会津藩が家名断絶にでもなれば「武士」という特権階級の身分を失うことになる。会津藩士たちは、沈みゆく泥舟と分かっていても、利権を守ることに執着し、最後まで戦った。
勿論、子供たちはそのような大人の事情などわかるはずもなく、純粋に藩のために戦ったのだが、白虎隊はそんな大人の事情に巻き込まれて自刃を選ぶ結果となる。武士としての心構えとしては見事だが、決して美談ではない。
その証拠に、喉を突いて死のうとした飯沼貞吉は、身体をまさぐる農民の手の動きで目を覚ました。
農民は飯沼がすでに死んだものだと思い、金目のものを探していたのである。武士ならば子供からも金品を奪う。この構図は領民と武士との関係性そのものを表していたのではないだろうか。
最後に
会津藩の武士は、藩主の松平容保を含め、視野が狭すぎたのかもしれない。
もっと早い時点で幕府に見切りをつけるか、さもなくば新政府軍に抵抗するのは成人武士だけで良かったはずである。
時代や価値観が違うので仕方ないことだが、今の視点から見ると白虎隊は大人のエゴによって犠牲となってしまったようにも映ってしまう。
若いとは言え当時の15-17歳は元服が済んでいる立派な大人なんだけどね・・・当時の状況を今と当てはめて考えるってのも違うかなと
生存者の話が面白いんだよね、一人ではぐれた男の子は山の中で自分ちの飼い犬と再会していっしょに下山してる
見てきたんか?
飯沼貞吉を見つけたのは、飯沼家で
奉公していて、里に帰らされた乳母だよ、
金目のものを探していただなんて失礼すぎる。
訂正よろ
その時の事情があったんだと思うよ
歴史は結局そうかもしれないけど、エゴだなんだというのは結果論でしかないと思いますよ…
会津プロパガンダによる嘘を指摘する
素晴らしい内容ですが1点だけ言わせてください。
白虎隊は元服を終えてるので青年です。
現代の感覚では少年ですが、当時の感覚では
成人してる武士です。
想像逞しくした内容ですね。
当時、孝明天皇からは最も信頼され頼られたのが会津藩の松平容保であり、
最も嫌われたのが暴烈な長州藩であり、孝明天皇が憤り国賊と指弾した三條実美でした。
会津藩としては朝敵と讒謗されるいわれはないと憤るのは当然だったでしょうね。
徳川慶喜の卑劣な逃亡と長州藩らの逆恨みから、スケープゴートにされてしまった悲劇の歴史でした。
徳川慶喜の卑劣な逃亡と長州藩らの逆恨みから、スケープゴートにされてしまった悲劇の歴史でした。
↑あなたみたいに歴史を勘違いされている方が非常に多いですが
会津討伐を決めたのは長州藩ではないですよ。西郷と林を参謀とする上級司令部によって
決まった事です。また会津討伐が決まったのは会津藩の数々の無礼な行動によるものです。
なぜかこういう会津藩の都合の悪い内容はあまり知られてないですよね。
幕府降伏後に先に新政府軍に攻撃してきたのは会津藩なのですが・・・。
長州藩の司令官は会津よりも仙台藩を攻めるべきだと提案もしています。
長州藩の逆恨みがーという人と何人も話してきましたが、みんなに
共通していたのは歴史をそこまで知らない、無知な方ばかりでしたね。
埋葬の件に関しても会津では出所が不確かな情報が多すぎます。
いい加減会津藩の都合の悪い歴史から
目を背けてなんでもかんでも長州や薩摩のせいにするのはやめましょう。
都合の良い部分だけ抜き取るのもやめるべきです。
テレ朝放映の「難攻不落!最強の城総選挙」を観ました。
第一位が西南戦争で攻撃に堪えた名城の熊本城、ボコボコ砲撃された会津若松城が第8地位でした。
ここに行き着き読ませて頂きました。色々意見のコメが有りますので、私も鄙見・管見を少し書きます。
攘夷親征や過激なことを嫌う孝明天皇の意向により、薩摩藩と会津藩などが連携し、文久3年の8.18政変で長州藩を京から締め出し、激発した長州藩は翌年に京を火の海にする禁門の変を起こしたが敗走した。
天皇が忌避していると知ってか知らでか、長州は「薩賊会奸」と憎んだと言われています。
やがて薩摩藩は一転し反幕・倒幕となり長州藩や岩倉具視と手を組み、西郷隆盛・大久保利通・岩下方平が岩倉に
「干戈を動かし天下の耳目一新」と開戦を迫り、討幕の偽勅となり、そして鳥羽街道で上洛する旧幕府軍に薩摩軍が発砲し戊辰戦争を始めた。(追討令では、旧幕府が戦端を開いたと誤魔化しています。)
「千騎が一騎になるも退くな」と命じながら、徳川慶喜は密かに江戸へ逃げ帰り引き籠り・歎願し、
山岡鉄舟・勝海舟の働きで江戸無血開城となり、鉾先は奥羽越へ・会津へと向けられました。
会津藩も嘆願したけれど握りつぶされ、言いがかりは如何様にも付けられる。
薩長勢力が権力を確実にするためには、孝明天皇が信認・感謝した者であろうが何だろうが、邪魔者は賊として攻め滅ぼす。
そう言う歴史だったのでは?(知ったか振りの素人の感想です)