下級公家の出自だった 岩倉具視
岩倉具視(いわくらともみ)は、かつては500円札の肖像にも使われた明治維新の立役者であり、維新後も新政府の要職を歴任した政治家です。
明治維新の原動力となった志士達の多くが薩摩や長州の武士達であったことに比べて、岩倉は京の公家であり、その中では低い身分の出自にも関わらず、中枢に関与した人物でした。
元々岩倉は、朝廷と幕府との一体化を目指す公武合体論に同調していました。
その意味においては後の討幕の方向とは逆の立場にありましたが、如何に変化していったのかを調べてみました。
鷹司政通との知己
岩倉は、文政8年(1825年)に公卿の堀河康親の次男として京に生まれました。その後、天保9年(1838年)に岩倉具慶の養子となって岩倉姓を名乗りました。
岩倉は、嘉永6年(1853年)に関白を務める鷹司政通に和歌の教えを請うことになり、下級の公家に過ぎなかった岩倉がここで朝廷の有力者と接する知己を得ました。
これを生かした岩倉は、朝廷の改革案を鷹司政通へ提言しました。当時は出自でほぼその地位が決定する公家社会の中にあって、その内容は実力主義の人材登用を説いたものでした。
しかしこれは否定はされませんでしたが、すぐに受け入れられることもありませんでした。
政治への関与
安政5年(1858年)に幕府の老中・堀田正睦が上洛し、日米修好通商条約(※不平等条約)の勅許を求めました。
時の関白であった九条尚忠は勅許を与えることに賛成でしたが、岩倉ら多数の公卿・公家はこれに反対する立場を表明しました。
そのため反対派の公卿88人で参内するという抗議活動を行いました。
堀田は孝明天皇に拝謁しましたが、岩倉ら反対派公卿の訴えもあって勅許は下されない結果となり、下級公家に過ぎなかった岩倉の意見が朝廷の方向性に大きな影響を及ぼす結果となりました。
安政の大獄と岩倉
しかし幕府は、安政5年(1858年)6月に大老・井伊直弼によって勅許を得られぬままに日米修好通商条約を結びました。
井伊はその後も各国と条約を締結し、これに抗議した水戸藩の徳川斉昭や福井藩主の松平春嶽らに対し謹慎の処分を科しました。
孝明天皇は水戸藩に対して井伊を抑えるよう戊午の密勅を遣わしましたが、井伊ら幕府は尊攘派や一橋派に向けた弾圧・安政の大獄を行い、力でこれに対抗しました。
この頃の岩倉は、政治の安定上から朝廷と幕府の対立は好ましくないと考え、幕府に理解を示したとされています。
和宮降嫁策
安政7年(1860年)3月に桜田門外の変で井伊が誅殺されると、幕府の方針も変化し公武合体論が主流派となりました。
その一環として、幕府は天皇の妹であった和宮(かずのみや)を将軍家へ降嫁させる案を要請してきました。
これを受けた岩倉は、現在の政治状況を踏まえて、今後朝廷が政治の実権を取り戻すことになったとしても、未だ大きな影響力を持つ幕府と協調した方が都合が良いと判断して、天皇へも降嫁を認めるべきと進言しました。
そして自ら和宮降嫁の実現に向けて調整に奔走しました。
尊王攘夷派による辞官
翌文久元年(1861年)には毛利慶親が長州藩主として「航海遠略策」を孝明天皇に奏上しました。
これは朝廷が中心となった公武合体と実質的な開国、国力を蓄えた上での攘夷の完遂を目指したもので、すぐに孝明天皇に受け入れらました。
これにより長州藩は朝廷の後ろ盾を得て、幕府にもその意向に沿う方針を命じる立場となりました。この策は幕府側にとっても助けとなることから、将軍・徳川家茂も長州藩の公武周旋を認めることになりました。
朝廷の復権と幕府の弱体化は、各地の尊王攘夷派の活動を活発化させました。
その中で岩倉は先の和宮降嫁に賛同したことなどから、幕府寄りの人物と見做されみなされて政争に敗れ辞官するに至りました。
岩倉の復権
辞官した後に岩倉は、長男・具綱が用意した岩倉村に移り、帰参が認められる慶応3年(1867年)までその地で蟄居の状態に置かれました。
しかし岩倉は、慶応元年(1865年)頃から朝廷や薩摩藩の有志と連携を取ると、武力討幕へと舵を切りつつあった薩摩藩の動きに併せて、自身も公武合体派から倒幕派へと立場を替えました。
こうして岩倉はその後の大政奉還を経て、王政復古の大号令とともに政権の中心に立つことになったのでした。
この記事へのコメントはありません。