宗教

ウィリアム・メレル・ヴォーリズと近江八幡【メンソレータムを普及させた建築家】

ウィリアム・メレル・ヴォーリズと近江八幡【メンソレータムを普及させた建築家】

※A portrait of William Merrell Vories taken around 1905

日本一の大きさを誇る琵琶湖のほとり、近江八幡という土地にウィリアム・メレル・ヴォーリズがやってきたのは明治時代のことです。

建築家であり、キリスト教の伝道師であった人物。近江八幡には彼が残した興味深いものが数多くあるのです。

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ

明治13年にアメリカで生まれた彼が、日本へ渡ってきたのは明治38年のこと。24歳の若さでした。滋賀県立商業高校(現:八幡商業高校)の英語教師として赴任してきたのです。
しかし彼は、生徒達に熱心にキリスト教の伝道をしたのが原因で、わずか2年で教職を追われてしまいましたが、アメリカへは帰ることなく、近江八幡に留まって様々なものを残したのです。

まずキリスト教の伝道はもちろん、アメリカの大学で建築を学んでいたヴォーリズは建築家でもありました。それが近江八幡に今なお残る「ヴォーリズ建築」です。そして誰もが知っている近江兄弟社「メンターム」の会社といったほうが分かりやすいでしょうか。
ウィリアム・メレル・ヴォーリズと近江八幡【メンソレータムを普及させた建築家】

昭和16年には日本国籍を取得して、『一柳米来留(ひとつやなぎめれる)』と改名しています。アメリカ(米)からきて(来)とどまる(留)ー米来留(めれる)。
昭和33年には、近江八幡名誉市民第一号に選ばれました。

メンソレータムとメンターム

ウィリアム・メレル・ヴォーリズと近江八幡【メンソレータムを普及させた建築家】
唇の荒れに必ず思い出す、「メンソレータム、そしてよく似た「メンターム」

気にしてみたことありませんか?どちらも白と緑を使った容器、描かれているのは、片方は女の子、もう片方は男の子です。
使い方はほぼ同じなのに違いがある、それは販売元の違いになります。

メンソレータム」ロート製薬から、「メンターム」は近江兄弟社からの販売です。
この近江兄弟社こそ、ヴォーリズが設立したものでした。

〈近江兄弟社〉

もともと「メンソレータム」はアメリカ「メンソレータム社」の商品です。
これを日本に持ってきたのが、ウィリアム・メレル・ヴォーリズでした。

日本で唯一「メンソレータム」の販売権を持っていたのが、1920年にヴォーリズが設立した「近江セールズ株式会社(近江兄弟社の前身)」だったのです。

ここで余談ですが、近江兄弟社の名前の由来をご紹介しておくと、

近江=滋賀県
兄弟社=キリスト教の信徒達 

を意味するそうです。

しかし1974年には、近江兄弟社は破綻してしまいました。その時に、メンソレータムの販売権をロート製薬に売却してしまうのです。

これで終わらなかったのが近江兄弟社。さすがに近江商人の流れを受け継いだだけあり、試行錯誤し大手企業の助けも受けながら会社を建て直したのです。
1975年には「メンソレータム」の略称として商標登録していた「メンターム」の名前で、もう一度売り出したのでした。

これが今の「メンターム(男の子)」です。値段は、メンソレータムよりもかなりお安く手にすることが出来ますね。
どちらも使い方や薬効は変わりませんが、成分と値段に多少の違いが見られました。

ヴォーリズは近江兄弟社をはじめ、他にも病院や保育所、幼稚園、高等学校などの礎をつくり、今もその流れを受け継いだ近江兄弟社、近江兄弟社学園、近江兄弟社グループが発展を続けているのです。

ヴォーリズ建築

近江八幡に留まったヴォーリズは、キリスト教の伝道だけでなく、建築家としてもその才能を生かし、数多くの建築物を残しました。
現在、近江八幡には25軒の「ヴォーリズ建築」と呼ばれる建物があります。

「ヴォーリズ建築」に見られる特色としては、住む人に対する気持ちが大変良くこもっているのが伝わる建物です。

例えば、窓越しからの温かい日差しと、開放的な空間を作るために設けられた大きな窓。
灯りがなくても明るく保てる天窓、全体的な四角い形の建物には、優しいアーチ状や流動的な箇所を見せる造り。
日本にありながら西洋建築の特色をプラスして、煖炉や煙突が見られます。

また、ヴォーリズ建築に見られる階段は勾配が驚くほど緩やかです。利用する人の負担にならない緩やかな階段、怪我をしないように角を丸く削られた手すりなど、至るところに気遣いが見られます。

日本建築のよさも見事に取り入れた階段下収納や、屋根には日本瓦を使用したり、形を独特の入母屋造りにするというなど、和と洋をうまく組み合わせたのです。

・今も残るヴォーリズ建築として、有名な建物をいくつかあげてみます。

一柳記念館(ヴォーリズ記念館)

※ヴォーリズ記念館 1931 wikiより

ハイド記念館(現メンターム創始者のハイド夫妻の名にちなんでいます)

ウィリアム・メレル・ヴォーリズと近江八幡【メンソレータムを普及させた建築家】

※教育会館(左)とハイド記念館(右)wikiより

旧八幡郵便局

※旧八幡郵便局 1921 wikiより

ヴォーリズ記念病院(礼拝堂のみ入館できます)

※ヴォーリズ記念病院礼拝堂 1936 wikiより

アンドリュース記念館

ウィリアム・メレル・ヴォーリズと近江八幡【メンソレータムを普及させた建築家】

※アンドリュース記念館(旧近江八幡YMCA会館)wikiより

一柳満喜子(ひとつやなぎまきこ)

ところで、日本に留まったヴォーリズを、生涯支えた1人の女性がいました。

ウィリアム・メレル・ヴォーリズと近江八幡【メンソレータムを普及させた建築家】

一柳満喜子は、ヴォーリズの奥様になった人物です。2人の出会いは大正7年のことでした。建築家として活躍していたヴォーリズは、ちょうどその頃、大阪の豪商であった廣岡家から増改築を依頼されていたのです。

廣岡家は一柳満喜子の兄の婿入り先、父の病気のために留学先から一時帰国していた彼女が、通訳を兼ねて間を取り持ちました。
そんな満喜子にひかれたヴォーリズは求婚しますが、当時の日本では2人の結婚は難しいことだったのです。一柳満喜子は華族の家系であったため宮内庁の許しが必要でした。何とか許しをうけ、翌年に2人は結婚します。ヴォーリズが設計した、明治学院の礼拝堂で結婚式が行われたのです。

彼女はヴォーリズのよき理解者でもありました。
満喜子夫人は、忙しい親たちの子どもが安心して遊べる場所を提供したいと考え、「清友園」を建てます。今の保育所のような感じです。保育・教育の発展に力を注いだ満喜子夫人。
これが大正11年には、滋賀県より認可がおり「清友園幼稚園(現、近江兄弟社学園)」となりました。

昭和6年には、ハイド夫妻から寄付を受け現地に園舎を建てて、昭和26年には幼稚園から高等学校までを統合した、総合学園近江兄弟社学園を創立したのです。
学校法人ヴォーリズ学園

最後に

近江八幡にはヴォーリズに由来する建物をはじめ、現在にまで受け継がれている精神が数多く残されていました。

この地を訪れると、色々なものがヴォーリズ夫妻につながっていきます。遠い昔には、織田信長もすぐ隣に続く安土に城を築いたこともありました。もっと古い時代には、近くの蒲生野では大海人皇子と額田王の再会の場があったことでも知られます。

こうして見ていると、近江八幡には人をひきつける、不思議な魅力があるように思えるのです。ぜひ一度、近江八幡に足を運んでみてください。

関連記事:
大津皇子について調べてみた【万葉の悲劇の皇子】
織田信長は安土城に何を求めたのか調べてみた

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