幕末という時代は、これまでの幕府と藩という関係のみならず、海外の勢力との関わりも無視できない時代だった。
もちろん歴史上、日本に外国の人間が訪れることはあったが、時代が進化してより長い航海ができるようになったこと、そしてそれに伴い、長距離での貿易が大きな利益を生む社会となったことも加わり、これまでのような「鎖国」という体制の維持が実質上不可能なほどに、諸外国からの干渉が増えた時代でもあったのだ。
このような情勢の中で、貿易という平和な手段のみならず、ときに戦闘行為もこうした諸外国との「関わり」と定義することができる。
この記事では、幕末日本の雄藩、薩摩藩とイギリスとの戦争、「薩英戦争」について解説しよう。
薩英戦争の引き金となった「生麦事件」
歴史上、多くの人が知るペリーの来航であるが、当時の幕府にとってはペリー自身よりも、むしろそれによって結ばれた条約のほうが大きな意味を持っていたことは明らかだ。諸外国とは「貿易」を行うという名目のもと、条約によって外国人の駐留や外国艦船の停泊など、日本は急速に外国人を受け入れる体制へと変化していった。
しかしそれに伴い、日本の旧来の習慣を理解しない外国人と日本人との間で摩擦や衝突が起こるという事態も珍しくなかった。「条約」は、そうした摩擦の解決の場において、しばしば日本人にとって不満な結果となった。いわゆる「不平等条約」である。
「生麦事件」は、そのような情勢下で起こった事件であるといってよいだろう。「生麦」という名前は、事件が起こった武蔵国にある生麦村(現:神奈川県横浜市鶴見区)に由来する。
事件の概要は、薩摩藩主島津茂久の父、島津久光の行列が生麦村を通行していたところ、日本に駐留していたイギリス人(商人やその家族)が藩の行列へ乱入し、薩摩藩士たちに殺傷されたというものだ。
通常、兵を引き連れた藩の行列が道を通行する際には、日本人であれば下馬し道を譲るのが当然という価値観であったが、イギリス人は藩士にその旨を言われても、言葉が理解できなかった。正面から島津久光の行列に相対することになったイギリス人は、道を譲ることもなく行列の中に乱入してしまい、さらに悪いことに騎乗していたため、方向転換のために馬を巡らせようとして行列を大いに乱してしまった。この「無礼」に対して藩士たちは、その場でイギリス人を殺傷したわけである。
この事件の処理として賠償金を支払うこととなったが、将軍徳川家茂と将軍後見職の徳川慶喜、そして上洛していた家茂の代わりに交渉に当たることとなった老中・小笠原長行の間で対応が迷走した。
結局のところ、賠償金の支払期日の前日に支払い延期の連絡をすることとなり、これにイギリス側の代理公使ジョン・ニールが激怒、イギリス海軍のキューパー提督に事件処理を委任した。
これは、軍事行動による解決を日本側に示唆したものであった。
イギリスは当時の「世界最強」海軍国だった
歴史上、「海軍国家」として名を馳せた国は多い。
ロシアのバルチック艦隊やスペインの無敵艦隊などは著名なものであるが、薩英戦争が起こった時代、19世紀においては、紛れもなく「世界最強」の名を冠する海軍を持つ国家はイギリスであった。
イギリス海軍を指して、当時の世界での海軍力においては2位といわれるフランス、3位のロシアの艦隊戦力を合計したものがイギリス海軍である、という評価もあったほどだ。また、艦船数だけでなく、度重なる海賊との戦いや長距離航海の経験から得られた知見は、海軍の強さに大きく影響を与えていた。
「世界最強」とされるイギリス海軍が艦隊を派遣して日本側(幕府・島津家)に対応を要求するというのは、「砲艦外交」の考え方そのものであったといえよう。
薩摩藩はどのように戦ったか?戦闘経過
さて、生麦事件の解決のため艦隊を派遣することを決定したイギリス側であったが、もともと艦隊は「海軍力」という圧力を背景に交渉を進める予定であった。
しかし、島津家は「生麦事件に関して責任はない」という返答書をイギリス艦隊に提出することで、生麦事件犯人の逮捕と処罰、遺族への賠償というイギリス側の要求を拒否した。イギリス側は、島津家との賠償金交渉を有利に進めるため、薩摩汽船を襲撃・掠奪した。これにより、薩摩側は沿岸7箇所に設置された砲台よりイギリス艦隊へ砲撃を加え、戦闘が開始されることとなった。
イギリス艦隊はフリゲート艦「ユーライアラス」を旗艦として、コルベット・スループ・砲艦の計7隻を引き連れて、薩摩側の砲台へ砲撃を行った。薩摩側第8、第7、第5台場(それぞれ祇園之洲・新波戸・辨天波戸台場)においては、薩摩側の大砲が8門破壊されるなど、当初はイギリス艦隊の砲撃に圧倒されることとなった。砲の射程・性能においてはイギリス側が有利であったのだ。
しかし午後の戦闘においては、辨天波戸砲台からの砲撃がイギリス艦隊旗艦「ユーライアラス」の軍議室に直撃して破裂し、艦長・副長が戦死、キューパー提督も負傷した。また、荒天と波浪によって戦闘中に座礁した砲艦「レースホース」を救出するべく向かったスループ艦「アーガス」も、新波戸砲台からの砲撃で3発の命中弾を受けている。
薩摩側は性能に劣る大砲であっても積極的に撃ち続けたほか、砲撃の間を縫うように小銃隊による狙撃も行うなど奮戦を見せた。一方、夜更けから翌朝にかけて行われた艦砲射撃においては、薩摩側の地上施設に大きな損害が出た。民家350余、侍屋敷160余、神社などが被害を受けたほか、藩営工場群である「集成館」も焼失した。
しかしイギリス艦隊側も石炭燃料や弾薬の枯渇、そして艦船の損傷もあり、それ以上の攻撃を行うことなく横浜へ撤退した。
両者はどのように「引き分け」たか
両者の犠牲者において損害を比較してみると、薩摩藩側では砲台での戦死が1名、負傷者は9名、市街地での死傷者は9名だ。一方イギリス艦隊側では、戦死13名、負傷者50名・負傷からの死亡が7名と、両者とも大差のない損害が出ている。
物的な損害では、薩摩側は砲台の大砲が8門破壊され、市街地の建造物も多くが焼失・破壊されるという大きな損害が出たが、イギリス艦隊側も沈没こそ免れたが、艦船は1隻が大破、2隻が中破という損害を受けた。イギリス側がどの程度この戦闘において自軍が優勢であると判断していたかは定かではないものの、当初は7隻の艦隊による、いわゆる「砲艦外交」を目論んでいた節があり、仮に戦闘になっても薩摩側に圧勝できる、という認識であったと考えるのが自然だろう。
当時のニューヨーク・タイムズ誌は、世界最強を誇るイギリス海軍が薩摩の兵と戦闘し、敗北したわけではないにしろ勝利を諦めて撤退したことを驚きとともに報じている。薩摩藩はイギリスに賠償金を支払うこととなったが、賠償金は幕府が貸し付けることとなり、この件は落着となった。
一方この戦闘によって薩摩藩には、イギリスの近代的な武装のみならず、イギリスを含めた欧米のことをより理解しようという機運が高まったとされる。またイギリス側も、薩摩藩を高く評価したとされ、この事件の後にイギリスと薩摩は急速に接近し、友好関係を深めていくこととなった。
おわりに
歴史上、航海技術や艦船の建造技術の発展は、関わりあうことのなかった人々を結びつけてきた。それは物資の行き来でもあったが、それ以上に人と人、そしてそれぞれの価値観の衝突をも生み出してきた。
薩英戦争・生麦事件においては、幕府側の事情や条約、当時の日本に形成されつつあった排外主義・攘夷論といった要素はあるにせよ、それもまた外と内との価値観の衝突であったともいえよう。薩英戦争は、近代的で「世界最強」のイギリス海軍が、極東の島国・日本の、それも現代の基準でいえば一自治体との戦闘で「勝利を収めることなく撤退した」戦争だった。
しかし本当に喜ぶべきは、薩摩側のそうした「戦果」ではなく、その後に形成された、両者が互いを理解しようという機運であろう。そして薩摩はこの後、攘夷ではなく外国の文化を取り入れた「新しい日本」の形を作っていく中心的な存在のひとつとなっていくのである。
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