江戸の練兵館へ、最強剣豪誕生
仏生寺弥助(ぶっしょうじやすけ 本名 : 吉村豊次郎)は、1830年に越中国射水郡仏生寺村(現:富山県氷見市)の百姓の子供として生まれた。
農家の次男であったが、手の付けられ無い乱暴者だったためも口減らしも兼ねて家を出された。そして江戸にある神道無念流の剣術道場・練兵館で風呂焚きの仕事に就くことになる。
練兵館は、剣豪・斎藤弥九郎が創立し道場主を務めていた。
練兵館は後に幕末江戸三大道場の1つとして知られ、「技の千葉(北辰一刀流・玄武館)」「位の桃井(鏡新明智流・士学館)」に並び「力の斎藤(神道無念流・練兵館)」と称された。
弥助は風呂焚き係として毎日薪割りやかまどの番をしていたが、暇があれば道場を覗き稽古の様子を熱心に見ていたという。
そんな弥助に声をかけたのが、練兵館の隠居先生・岡田利貞だった。
当時16歳であった弥助に何か光るものを感じたのか、弥助に「もし剣術に興味があるなら1つ稽古してみるか」と聞くと、喜んで稽古に参加したという。
弥助は子供の頃からチャンバラごっこなら負けたことは無かったが、竹刀も木刀も使ったことが無かった。しかし、いざ稽古してみると竹刀はもちろん太い木刀も軽々と振り回し、道場の者達を次々と倒してしまったのである。
これに驚いた利貞は、弥助に風呂焚き係を辞めさせ、すぐに剣術を学ばせることにした。
道場に上がるようになり弥助の剣の才能は一気に開花した。あらゆる限りの剣術を利貞から教わった弥助は神道無念流に入門した。そして通常8年かかるところを2年で免許皆伝し、しかもその2年間の間、弥助は負け知らずだったという。
このように弥助に勝てる者はおらず、まさに剣の天才であり、その才覚を認めていた弥九郎は弥助を塾頭にしようと勉強を勧めるが、その性格はいい加減で勉強には全く向いてなかった。
しかしいっぱしの剣術家となった弥助は、故郷の仏生寺村にちなんで「仏生寺弥助 : ぶっしょうじやすけ」と名乗るようになった。
この時、弥助は18歳であった。
閻魔鬼神・弥助
弥助の得意技は、左上段からの面打ちだった。相手に「打つ」と予告して守らせたにも関わらず、その隙をつき必ず当ててしまう太刀筋に、相手はなす術が無かったという。
また組討も得意で、特に上段前蹴りは面打ちと同じく予告しているにも関わらず、必ず命中させた。
弥助は標準的な体格であったが、どんな大男相手でも勝ち続け、次第に「斎藤塾の閻魔鬼神」と恐れられた。
粗暴な性格であった弥助だがその一方で、大恩がある弥九郎の息子達である長男・新太郎と三男・歓之助には1歩譲って試合では勝とうとしなかったという。しかしこの時にはすでに弥助の実力は兄弟達を上回っていることを、利貞は見抜いていた。
道場を飛び出し、適当生活
元がいい加減な性格の上に大の酒好きでもあった弥助は、稽古の時以外は呑んだくれてしばしばトラブルも起こしていた。そんな性格のため、勉学を勧め続けられることに嫌気がさしたのか、弥助は突如練兵館を飛び出してしまう。
その後は、ヤクザの用心棒などをしながら適当な生活を送っていた。しかし弥助は気が向くと、ふらっと練兵館に現れたりもした。
同じ斎藤門下生で長州藩士の高杉晋作は、弥助の名前だけは知っていた。
晋作が剣術修行で諸国をまわっていたとき、偶然、弥助に出会った。
弥助の強さが気になっていた晋作は、すぐに試合をしたが弥助の圧勝に終わり、晋作は「全く歯が立たなかった」と語っていたという。
道場破りに圧勝
ある日、練兵館を利貞や斎藤兄弟が留守にしていた時に凄腕の道場破りがやって来た。
道場破りは長竹刀で有名な大石進の弟子で、斎藤清一郎と名乗り、高弟達を次々に倒していった。この練兵館始まって以来の危機にひょっこり現れたのが、ボロボロの服をまとった弥助だった。
高弟達から話を聞いた弥助は「俺が相手になる」と道場に出た。
10本勝負で行われた試合は、弥助が左上段の速攻でまず1本をとる。弥助はそのまま構えを変えずに2本目も強烈な面を食らわせた。清一郎もなんとか構えや間合いを変え応戦するが、弥助は最後まで同じ構えで立て続けに10本の面を決めた。
外出から戻り、途中から試合を見ていた利貞は、弥助のことを「鉄の草鞋で日本国中探しても二人といないだろう」と評したという。
剣豪・宇野金太郎と試合
幕末には長州岩国に宇野金太郎という剣豪がいた。金太郎は剣の強さと性格の悪さで有名だった。また箸で飛んでいるハエを掴むことも出来たという。
以前、桂小五郎が挑んだ時には、小五郎に強烈な小手を打ち込み試合続行不能にさせるほどの強さだった。
ある時、金太郎は肥前大村藩で剣術師範を務めていた「鬼歓」の異名を持つ斎藤歓之助を打ち負かした。
歓之助は練兵館のメンツが潰れることを恐れ、すぐに江戸の利貞に手紙を出した。その内容は「金太郎に雪辱を果たしたいため、弥助に来て欲しい」というもので、歓之助は剣術師範の面目を保つため、弥助に助けを求めたのである。
弥助はすぐに駆けつけて合流し、歓之助たちと共に金太郎の道場へ向かった。道場に着くと歓之助はまず礼儀正しく挨拶をした。すると金太郎は小馬鹿にしたように「何度でも試合してやる」と答えた。歓之助は怒りを抑えながら、練兵館の代表と試合してほしいと弥助を紹介し、弥助もこの時は手をついて挨拶した。
金太郎は試合を了承し、弥助と金太郎の10本勝負が行われた。
試合の1本目、左上段の構えを見せた弥助に対し金太郎はイラついた。上段の構えは「守り」を捨てた「攻め」の構えで、普通は自分より格下の相手に使う構えである。
金太郎は一気に間合いを詰めるが、その瞬間、稲妻のような衝撃が頭に走った。金太郎には弥助の剣が全く見えていなかったのだ。動転する金太郎だったが、構えを変えて応戦した。しかしその後も弥助は立て続けに面を3本打ち込んだ。
弥助の面が来ると分かっていながら防げず、混乱した金太郎はすっかり戦意喪失した。4本目の試合は辞退するしか無く、弥助の圧勝だった。
しかし歓之助は戦意喪失した金太郎に試合を申し込んだ。金太郎が辞退したにも関わらず、無理矢理に試合をさせて今度は歓之助は勝利を得た。
勇士組に選抜される。京都での最期
1863年、変わらず適当な生活をしていた弥助に京都行きの話が来た。
この頃、京都では長州藩・薩摩藩と会津藩が攘夷運動の主導権争いをしており、長州藩主・毛利家より練兵館に援軍要請があったのである。そのため弥九郎は門弟で優れた者10数名を選び、その中に弥助の姿もあった。
しかし弥助は京都に着くなり、軍資金の調達として呉服屋で300両を押し借りし、それを遊興費に使い果たしてしまった。しかも酔っ払ってはトラブルを起こすという有様だった。
そして、さらにとんでもないことに敵対する壬生浪士組局長・芹沢鴨と意気投合してしまったのである。
この鴨は、近藤勇、新見錦と共に後の新撰組となる壬生浪士組の局長を務めていた。しかし乱暴な性格で多くのトラブルを起こしており、弥助とは無法者同士通じ合うものがあったのかも知れない。
やがて弥助は新撰組に鞍替えしようとした。
その後、強力な剣豪である弥助が敵となることを恐れた勇士組と長州藩士らは、弥助を酒に誘って泥酔させた後に、五条河原で暗殺した。
享年33だった。
やりたい放題のどうしようも無い性格の一方で、剣の腕は超一流であった剣豪・仏生寺弥助。師への恩は忘れないという一面もあり、素直に勉学を学んでいたらまた違った人生だったのかも知れない。
参考文献 : 日本剣客列伝
間違っていたならすいませんが、この記事rapportsさんなのでは?
っぽいですけど、これは違いますね
剣豪大好きな私はrapportsさんと私は個人的に知り合いですが、本人が書いたと言っています。
赤備え軍団も自分だと、ただ記事は草の実堂さんに送った時から草の実堂さんのものだと言っていました。
だから違うって言ってるじゃないですか。
間違っていた場合は普通に修正しますよ。
赤備えも最近のライターさんです。
ライターさんから納品されたスクショを送りましょうか?メアドをくれれば送りますよ。
あまりに酷いともうNGにしますよ。rapportsさんにも失礼です。
rapportsさんは会社の名前でこの記事は記事を書いているのは基本1人だが、この記事は1~2年前に書いたが、去年に間違ってもう一度書いたかも?実は会社に若い日本史好きな人が入って、そのために社長がrapportsの名前を使わなくなったのかも?と言っていましたよ。
rapportsさんはまだ若い人が草の実堂さんに記載する実力がないから1~2年くらい年位前に会社の社長が違う名前か編集部で出すようにしたのではないか?と言っています。apportsrapports
実際にrapportsさんや他のライターさんとやりとりしている私が違うって言ってるのに、なぜわかっていただけないのですか?
rapportsさんの記事ならちゃんとrapportsさん明記しますよ。そこを変更して私になんのメリットがあるのですか?
この記事は歴史好きの女性のライターさんが書かれた記事です。
rapportsさんは先ほども言ったように記事を送った時から草の実堂さんのものだと言っています。
悪いのは個人的に付き合いがあった私ですから、rappotsさんを切らないで下さい。
rapportsさんは大事なライターさんですから、切るなんてことは絶対にありえません。最も貢献度の高い方です。
安心してください😀
歴史ファンとして草の実堂さんの記事や話は面白いですよ。rapportsさんが記事は草の実堂さんのものだと思っているなら不毛な争いはやめて次のrapportsさんの面白い記事を待っていますよ。