4度の内閣総理大臣をはじめ明治の政府要職を歴任した伊藤博文。
元老として、明治~昭和の政治のベースとなった大日本帝国憲法の作成に深く関わりながら、政党を立ち上げるなど優柔不断な政治家との評も多い。
しかし一方で、お世辞を使わず、金銭的な欲も持たなかった正直者として、明治天皇の絶大な信頼を得たその人物像に迫る。
幕末に固まった伊藤博文の施政理念
明治という時代を考えるうえで絶対に逸することができない人物、その代表が伊藤博文です。
伊藤は大日本帝国憲法を制定し、議会を日本に開設、初代内閣総理大臣を含め、4度内閣を組閣し首相を務めた大政治家でした。その晩年には、初代韓国統監として日本帝国主義による韓国併合を進めまています。
伊藤は、1841(天保12)年、長州藩の百姓の子として生まれます。父親が藩の足軽・伊藤家の養子となり、彼は足軽という武士で最下層の身分になりました。
上司の来原良蔵の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾。さらに、来原の義兄である桂小五郎(後の木戸孝允)の従者となります。
青年期におけるこの桂との出会いは、その後の伊藤の人生における大きな転機となるのです。
その後、伊藤は藩命による密航留学で、イギリスに渡ります。
イギリスでの伊藤は、英語能力の習得に熱心で、彼と接した欧米人は彼の英語力に称賛をおくるほど、その語学力は卓越したものであったようです。
また、海軍施設や工場の見学にも熱心で、「世界の工場」と称された産業革命発祥の国、イギリスの国力を目の当たりにします。
この時の経験が、「知の政治家」と称される伊藤の一貫した施政原理になりました。
その原理とは、先進国の文明を自ら吸収し、それを国民に行きわたらせ、日本を文明国として自立させることでした。
大きな失敗をものともせず糧にする性格
明治維新を迎えると、伊藤に活躍の舞台が開けます。そこには、上司である木戸の後ろ盾があったことはいうまでもありません。
新政府内で、「維新三傑」と称された長州の木戸孝允、薩摩の大久保利通・西郷隆盛が、当時の政府の中心にあったからです。
そして、伊藤は密航留学で培った英語力と経験を武器に、新政府内で、参与、外国事務局判事、大蔵兼民部少輔、初代兵庫県知事、初代工部卿、宮内卿など様々な要職を歴任します。
これは、木戸・大久保・西郷に続く、「富国強兵」「殖産興業」を担う指導者として、大隈重信・井上馨・山縣有朋らとともに、伊藤が期待されていたからにほかなりません。
そんな伊藤にさらに大きなチャンスが訪れます。
それは、1871(明治4)年11月、日本からアメリカ・ヨーロッパ諸国へ派遣された岩倉使節団の副使に抜擢されたことです。
特命全権大使の岩倉具視の下で伊藤と同じ副使を務めるのが木戸と大久保ということで、伊藤の副使任命がどれほどの大抜擢か分かるでしょう。総勢107名といわれる明治政府をあげての大使節団の中で、伊藤は「維新三傑」の2人に肩を並べたのです。
岩倉使節団の目的は、江戸幕府が諸外国と結んだ不平等条約の改正のための予備交渉でした。ワシントンに入った一行は、直ちに条約改正交渉を行おうとします。
実は、その方向へ使節団を導いたのが伊藤でした。そもそも伊藤は、日本出発当初から暴走気味であったと伝えられています。
2度にわたる外遊経験を鼻にかけて、一行の顔役気分で振るまっていたとの記録もあり、伊藤の陽気で開放的という生来の性格が良くない方向に出た代表例といえるでしょう。
そして、自分がいれば「条約を改正してみせる」と大見得を切り、交渉に必要な全権委任状が必要だと論じ、大久保とともに一行から離れ、帰国してしまいました。
しかし、アメリカに残された使節団が直面したのが、列強との条約で締結されている片務的最恵国待遇のカラクリでした。それは、アメリカ一国と条約改正をしても、そこでアメリカに与えた特権が自動的に条約締結を行っている全ての国に認められてしまうというもの。
このような形ではアメリカとの条約改正に臨むのは不可能で、使節団は伊藤が戻って来る4か月もの間、無駄に時間を過ごすことになってしまったのです。
国内情勢が安定しない当時、この失態は大変なものでした。普通なら伊藤は更迭され、再び政治の表舞台に復帰するのにかなりの時間を要したことでしょう。しかし、大久保がともに帰国したという事実が、伊藤を救いました。伊藤を更迭すれば、その累が大久保にも及んだからです。
では、失態を犯した伊藤はどうしたのでしょうか。
彼は決してふさぎ込むことなく、持ち前の明るさで、この失敗を境に今までの急進的な考えを斬新的な思考に切り替えていくのです。
優柔不断と称された伊藤博文の実像とは
司馬遼太郎は、「伊藤博文には政治家としての哲学性が薄い」と記しています。同様に、多くの近代史研究者達が、伊藤の性格を優柔不断と述べています。
幕末期、伊藤は攘夷派のテロリストとして英国公使館焼き討ちに参加、思想を異にする志士の暗殺にも手を下しました。しかし、イギリスに留学すると、すぐにその優れた要素を吸収。そこにはもう攘夷派という顔は見らせません。
明治維新を迎えると、藩閥政治の中での重責を担いつつ、国会開設を求める動きが高まると、ドイツに渡り憲法研究を開始し、大日本帝国憲法の作成に深く関わります。
そして、1885(明治18)年に初代内閣総理大臣に就任。議会開設後は、維新政府にとって不俱戴天の仇・自由党とも提携します。
1888(明治21)年には初代枢密院議長に就任し、首相を辞任。1890(明治23)年には黒田清隆内閣のもと、大日本帝国憲法が施行され、第1回帝国議会が開催されました。
伊藤はこの前後、憲法を用いた立憲政治の重要性と、一般国民の政治への参加の大切さを訴えます。さらに天皇に近い元老でありながら政党結成を主張しているのです。そして、1900(明治33)年、ついに伊藤は立憲政友会を結成し、初代総裁として第4次伊藤内閣を組閣します。
こうした伊藤の行動は、藩閥・政党・枢密院・宮中など、融合できない勢力の間を自由に泳ぎ回っているようにみえます。この伊藤の行動を優柔不断とみれば、なるほどその通りでしょう。
しかし、時代は常に変化しているのです。特に明治時代は、世界史的な見地からも激動の時代でした。
その時代の変化に柔軟についていける政治家が伊藤以外、一体どれほどいたことでしょう。
伊藤は、政党結成などで明治天皇の不興を買いました。
しかし、明治天皇は正直で私欲を持たない伊藤をことのほか信頼していたといわれます。天皇は、日露戦争開戦直前の御前会議当日の早朝、伊藤を参内させ直接その意見を聞いていることからも、伊藤への絶大な信頼感が伺えます。
伊藤博文は、荒波の中を漂う、近代日本の舵取り役として、その手腕を思い切り発揮した政治家であったのです。
※参考文献
伊藤之雄著『伊藤博文 近代日本を創った男』講談社学術文庫 2015年3月
羽生道英著『伊藤博文 – 近代国家を創り上げた宰相』PHP研究所 2011年5月
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